ニッポン維新(174)09年政権交代を総括するー2

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日本に戦後初めての政権交代をもたらした第一の要因は米ソ冷戦構造の終結です。米ソが対立した時代に対峙した自民党と社会党の間では、政権交代が国際的な枠組みを超える事になり、戦後日本を占領支配したアメリカが認める筈はありませんでした。しかし冷戦が終わるとアメリカの姿勢は変わります。
私は冷戦が終わる直前の1990年から2001年の同時多発テロまで、アメリカ議会で繰り広げられた日本に関する議論を日本に紹介する仕事をしてきました。そこではアメリカを脅かすほど経済成長を成し遂げた日本を様々な角度から分析し、如何にコントロールしていくかが議論されていました。09年の政権交代とその挫折にはアメリカの存在が大きく影響しているのです。戦後GHQ(連合国軍総司令部)に占領支配された日本が独立したのは1952年です。米ソ冷戦構造の中でアメリカは日本を欧州の西ドイツと並ぶアジアの「反共の防波堤」と位置付け、日本は日米安保体制を軸に西側の一員として歩み始めました。
占領当初のGHQは日本に軍事力を復活させない事を目的に、徹底した「民主化=アメリカ化」を図ろうとしました。公用語に英語を使わせ、工業力を廃して農業国に作り替え、日本を東南アジア諸国と同レベルの経済力に抑えようと考えました。
ところが冷戦の始まりでそうした考えは一変します。朝鮮戦争の勃発により、日本はアメリカ軍の出撃と補給基地としての役割を担うことになり、工業化が急務となりました。工業化のためには安価な労働力を農村から吸収する必要があります。日本を農業国にするアメリカの考えは農業を自立させずに労働力の供給地にする方針に変わりました。
それは農業大国アメリカの利害とも合致します。学校給食などで日本人の食生活をパン食に変え、日本をアメリカの農産品の輸出先にする政策が採られました。自民党の農業政策の基本は、公共事業によって農村に金をばらまく事でした。自立できない農家は公共事業の予算に頼るようになり、予算の権限を持つ自民党が農村に強固な選挙地盤を築く事になりました。
鉄道、道路、港湾施設、ダム、空港などが地方に作られていきました。敗戦から復興する過程で社会資本を整備する公共事業は必要な政策課題でした。しかし回り始めた歯車は次第に限度を超えていきます。必要のない鉄道、道路、ダム、空港などが作られ、赤字路線が国鉄や航空会社の経営を圧迫し、日本の財政を歪めていきます。
政権交代があればその歯車を修正する事も可能です。しかし冷戦時代の日本には政権交代の仕組みがありませんでした。自民党に対抗する野党として二大政党の一角を占めた社会党は、1958年の総選挙で過半数を超える候補者を擁立し政権獲得を狙いましたが、獲得議席数が3分の1を超えた程度に終わると、それ以後の選挙に過半数を超える候補者を擁立しなくなりました。社会党は政権交代を狙わない野党になったのです。
代わりに3分の1を超える議席数を確保して憲法改正を阻むことが社会党の目的になります。こうして与野党が政権交代を巡って対立するのではなく、憲法改正を巡って対立するという独特の政治体制が生まれ、日本には半永久的に政権交代が起こりえないかに思われました。
それはアメリカに好都合な構造でした。自民党に憲法改正を促して再軍備させ、アメリカの安全保障戦略に従属する道を選ぶよう要求した時期もありますが、アメリカには日本の自立を警戒する心理もあります。憲法改正が日本の自立を促す事になれば望ましい事ではないのです。アメリカが作った憲法を守らせることもアメリカの利益なのです。
こうして冷戦期は自民党長期単独政権の時代となりました。それが変わるのは、アメリカが建国以来初めて戦争に敗れたベトナム戦争からです。万年与党と万年野党の政治構造がアメリカにとって好ましいものではなくなりました。(続く)