ニッポン維新(178)09年政権交代を総括する-6

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「東アジア共同体」構想の始まりは97年の「橋本ドクトリン」です。東南アジアを歴訪した橋本龍太郎総理が日本とASEANとの定期的な首脳会談を提案し、その年にマレーシアがASEAN首脳会議に日本、中国、韓国の首脳を招待した事から「ASEAN+3(日中韓)」の枠組みが生まれました。それがEUに匹敵する「東アジア共同体」構想へと発展していきます。
02年に日本の小泉総理はシンガポールの演説で「東アジア共同体」に言及し、04年には国連総会で、05年には国会の施政方針演で「積極的な役割を果たす」決意を表明しました。04年に中曽根元総理を会長に設立された「東アジア共同体評議会」はそのための中核的なシンクタンクで、経済にとどまらず安全保障も含めた地域共同体の研究を行っています。
その第一回の会合が外務省で開かれた事からも分かるように、このシンクタンクは日本の外交方針と連動し、小泉総理の決意表明もそうした動きを背景としています。日本は21世紀に入ってようやく冷戦後に見合う外交戦略を構想し始めました。外務省は「米国など東アジアの将来に致命的な影響を有する国との間では、意思疎通を常時図るメカニズムが必要」としたうえで、「東アジア共同体」を構成するのは、ASEAN+3、インド、オーストラリア、ニュージーランドとしました。オーストラリアとニュージーランドを入れたのは対米関係を配慮したためです。
従って「東アジア共同体」には日中関係の再構築が極めて重要でした。ところが小泉総理は01年の自民党総裁選挙で靖国参拝を「公約」し、総理に就任すると毎年参拝を続けました。これに「東アジア共同体」の主要なメンバーである中国と韓国が反発します。05年に韓国で起きた反日デモが中国に飛び火すると、暴徒化した民衆によって日系のスーパーが襲われる事件が起きました。さらに中国の反日運動は日本の悲願である国連の安保理常任理事国入り反対運動へと発展していきます。
小泉総理の靖国参拝は国内でも賛否は分かれましたが、反日運動の高まりを見せつけられると、日本人の反中国感情に火が付きました。それが「東アジア共同体」構想そのものを否定する動きにつながっていきます。アメリカにとっては好ましい展開でした。ソ連の崩壊によってアメリカの目は大西洋から太平洋に向けられ、アジア地域を重要な外交戦略の対象と位置付けますが、その戦略は「ハブ・アンド・スポーク」と呼ばれ、アメリカ(ハブ)を中心に日本や韓国がつながる二国間関係が基本です。「東アジア共同体」のような地域ネットワークとは相いれないのです。
結局、冷戦後に見合う外交戦略を築こうとした「東アジア共同体」構想は、小泉総理の靖国参拝によって挫折を余儀なくされました。そしてそれからの日本は「日米同盟」中心の冷戦時代の構造に戻ります。日本は北朝鮮の脅威に備えてアメリカからイージス艦やミサイル防衛システムを購入させられ、アメリカの「中国封じ込め」に協力する事になりました。
しかし一方でアメリカは中国との経済関係を強めています。03年にはアメリカの対中貿易が対日貿易を上回り、日本の技術を打ち負かすための米中共同の技術開発も進展しています。つまりアメリカは中国を安全保障面では「敵」、日本を「味方」扱いしながら、経済面では日本を「敵」、中国を「味方」扱いしているのです。
そうした冷戦後の構図の中で、日本の政治に再び変化が求められるようになりました。かつての細川政権は国民が選挙で選んだ政権ではありません。国民が選んだ第一党は自民党で、自民党が他党と連立すれば野党に転落する事はありませんでした。しかし今度は自民党と民主党のどちらを政権に選ぶかが国民に委ねられました。そしてそれは日本が冷戦後に見合う国家体制を構築できるかどうかを問う選挙でもあったのです。(続く)