ニッポン維新(94)国民主権を阻む壁―9

就任時の小泉総理は自民党内で圧倒的に少数派でした。小泉総理を支持する森派、加藤派、山崎派を合わせても自民党国会議員の三分の一に満たなかったのです。尋常な方法では政権運営が出来ません。そこでマジックが必要でした。

小泉総理が「自民党をぶっ壊す!」と叫び、自民党の最大派閥を「抵抗勢力」に仕立てあげて国民に政権交代が起きたかのような錯覚を抱かせ、それで人気を得たという第一のマジックについては前回触れました。従って小泉政権は民主党に似た政策を掲げます。それも小沢一郎氏が自民党を離党する直前に出版した「日本改造計画」と似た主張でした。

かつての自民党の政策は社会党と同じ「大きな政府」でした。官僚が全てを取り仕切り、国民の箸の上げ下ろしまで官僚が指導するやり方です。これに対して小沢氏の「日本改造計画」は、国民が自立する国家のあり方を示しました。それを「普通の国」と小沢氏は表現しましたが、小泉総理はそれと似た「小さな政府」を言い出したのです。自民党のベテラン議員からは「小泉構造改革は小沢一郎の政策を盗ったものだ」と言われました。

第二のマジックは政治手法です。見事なまでに中曽根元総理のやり方を真似しました。中曽根元総理も自民党内では傍流で少数派でした。総理になれたのは最大派閥を擁する田中角栄元総理の支援を受けたからです。そのため当初は「田中曽根内閣」と呼ばれ、田中元総理の傀儡と見なされました。にもかかわらず中曽根政権は佐藤、吉田政権に次ぐ長期政権を実現しました。党内少数派という境遇が似ていたから小泉総理は中曽根元総理の政治手法を真似したのかも知れません。とにかく小泉政権と中曽根政権には共通点が多いのです。

まずアメリカ大統領との個人的関係を重視しました。中曽根元総理がレーガン大統領との間にロンーヤス関係を築いたのと同様に、小泉総理はブッシュ大統領と個人的関係を築いて政権運営に役立てました。アメリカ大統領を味方に付ける事は国内での権力基盤を強めますが、一方ではアメリカの言いなりになって国益を損ねる危険もあります。しかし二人とも党内少数派であった事からアメリカを後ろ盾にする必要がありました。

次に二人とも「増税なき財政再建」の立場をとりました。日本の借金財政をどうするかは歴代の政権が苦労してきた問題です。消費税導入を巡り何人もの総理が辞任に追い込まれました。しかし中曽根、小泉の両氏は「自らの政権では増税をしない」と断言しました。また二人は「公的機関の民営化」を政権の最優先課題にしました。中曽根元総理は国鉄、電電など三公社を民営化しました。これに対して小泉総理は道路公団と郵便局の民営化に力に入れました。

さらに二人は日本の歴史を変えて名を残そうとしました。歴史上、日本の首都は400年毎に「遷都」を繰り返してきたとして、中曽根元総理は「東京遷都」を画策します。「首都移転」を国会決議させ、候補地を絞り込みましたが、中曽根氏が総理を辞めると途端にこの話は下火になりました。一方の小泉総理は皇室典範を変えて女性天皇を認めようとしました。皇太子に男の子供がいなかったためですが、秋篠宮家に悠仁親王が誕生してこちらも実現はしませんでした。

そして二人が共に力を入れたのがマスコミ対策です。中曽根元総理には劇団四季の浅利慶太氏がブレーンとなり、水泳や座禅のシーンを撮影させ、またレーガン大統領を自らの山荘に招いてホラ貝を吹くなどのパフォーマンスを見せました。どちらかと言えば「殿様らしい」パフォーマンスを中曽根元総理は心がけました。

それに対して小泉総理は庶民的なパフォーマンスを打ち出しました。スポーツ新聞やテレビのワイドショーに取り上げられる事を狙い、毎日「ぶら下がり」取材に応じて、そこで鼻歌を歌い、またキャッチボールをしたり、ラーメン屋に行ったりと「横町のあんちゃん」風を装いました。

小泉総理によってそれまでの国民の政治を見る目が変わりました。「親しみを感じるようになった」と言えば聞こえは良いのですが、日本人は複雑な政治のからくりを表層だけで判断するようになりました。小泉人気につられて政治家たちがこぞってワイドショーに出演するようになり、芸能人と変わらないレベルのおしゃべりをする事が国民に受けるようになりました。

国民の手の届かない所で繰り広げられてきた権力闘争に辟易してきた国民は、一時的に政治を身近に感じるようになり、もやもやを解消させましたが、しかしそれで日本の政治課題が解決された訳ではありません。冷戦の終結と共に始まった日本の凋落は少しも止まる事なく、面白おかしい政治に浮かれているうちに、むしろ国民生活は苦しさが増していったのです。(続く)