ニッポン維新(133)民主主義という幻影―19

1985年に摘発された撚糸工連事件は、構造不況にあえぐ繊維業界の団体職員が国の制度を悪用し、国からの補助金を横領するため通産省の官僚や政治家に賄賂を贈ったとされる事件です。興味深いのは、事件の背景を探っていくと戦後の日米関係と田中角栄氏の政治手法に行き着く事です。

日本が戦後復興を成し遂げて目覚しい躍進を遂げていた1964年、総理大臣に就任した佐藤栄作氏は「沖縄返還」を政権の悲願としました。米軍の支配下にある沖縄を訪れて「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、日本の戦後は終らない」と演説します。するとアメリカは返還の代償として日本の主力産業である繊維製品の輸出規制を要求してきました。

特にニクソン大統領は選挙公約に米国繊維産業の保護を掲げた事もあり、要求を強めてきました。沖縄返還を悲願とする佐藤政権の足下を見てのやり方です。しかし繊維製品は日本にとって花形輸出商品でした。日本も簡単には譲れません。交渉は難航しました。これが日米貿易戦争の始まりとされる繊維交渉です。

1971年に通産大臣に就任した田中角栄氏は、佐藤総理が悲願とする「沖縄返還」を実現するためアメリカの要求を受け入れる決断を下しました。日本の繊維業界には政府が損失を補填し、転業を促す事にしました。そのため使われなくなった工場の機械を国が買い取る制度が作られました。

この制度を悪用し、対象とならない機械まで国に買い取らせようとした業者を摘発したのが撚糸工連事件です。その過程で撚糸工業組合連合会(撚糸工連)の幹部が、制度を維持するため通産省の官僚を接待し、政治家に政治献金をばら撒いている事が発覚しました。

ロッキード事件以来10年間沈黙していた検察が動き出しました。今度はバランスを取って与党と野党の政治家を一人ずつ摘発しました。自民党中曽根派の稲村左近四郎代議士と民社党の横手文雄代議士です。稲村左近四郎代議士は地元に繊維産業を抱える与党政治家、横手文雄代議士は繊維産業の労働組合である全繊同盟出身の野党政治家でした。

二人は撚糸工連から政治献金を受け、業界が有利になるような国会質問を行ったとされ、稲村氏は収賄罪、横手氏はそれより重い受託収賄罪で起訴されました。当初は二人とも容疑を否認しましたが、一審で有罪判決を受けると、稲村氏はいったんは控訴しますが、その後控訴を取り下げて罪に服します。しかし横手氏はあくまでも無罪を主張し続け、1992年に二審で逆転無罪判決を受けました。

無罪となった理由は、金の受け渡しに物的証拠がなく、撚糸工連幹部らの供述が執行猶予を得たいがために検事に迎合した可能性があるという事でした。最近では検事が供述調書の改竄を行ない、供述調書の信憑性が問われるようになりましたが、当時の検察はあくまでも「正義の味方」と信じられています。その意味では画期的な判決でした。法学者の中には「ようやく供述証言の危険性が指摘された」と判決を評価する声もありました。

他方で、政治献金をした側に有利な国会質問をすると、職務権限の行使と見なされて収賄罪に問われた事も問題視されました。政治家は支持者から票と献金を受けて国会に送り出され、支持者の利益のために働く存在です。全繊同盟から送り出された横手氏が繊維業界から献金を受ける事も、繊維業界に有利になる質問をする事も、それは政治家の仕事ではないかという疑問です。

許認可権を持つ官僚がその権限を使って行政をねじまげ、賄賂をくれた相手に有利な取り計らいをすればそれは間違いなく収賄罪です。しかし政治家の政治活動は支持者からの献金で成り立っています。その支持者に有利な質問をする事が職務権限を使った犯罪ならば、民主主義政治は成り立たないと言われました。

国会には様々な地域の代表、様々な業界の代表、様々な国民の代表が集い、それぞれの政治家が支持者からの要求をぶつけ合って全体の調整を図ります。それが民主主義の民主主義たる由縁です。ところが撚糸工連事件ではそうした政治活動が断罪されました。そしていったんは無罪となった横手氏は最高裁によって有罪が確定しました。

最高裁の判決が下された頃には、民主主義の否定につながるのではないかと議論された検察の捜査に誰も疑問を抱かなくなっていました。10年の沈黙を破った検察は、撚糸工連事件に次いで88年にリクルート事件、91年に共和事件、そして92年には東京佐川急便事件と次々に政界捜査に切り込み、日本全体が「汚れた政治と正義の検察」というマインドコントロールに包み込まれていったからです。

検察は行政権力です。その行政権力が国民の代表を摘発する事に国民が何の疑問も抱かなくなり、検察は次第に「巨悪」とも思えない政治家を捜査の対象とするようになりました。先進民主主義国ではありえない事態です。そして国会は税金の使い道の議論などせずにスキャンダル追及を優先して行なうようになりました。これも民主主義国ではありえない事態です。(続く)