(88)国民主権を阻む壁―3

ここで参議院が誕生するまでの経緯を整理してみます。日本を占領した連合国軍最高司令官マッカーサー元帥が日本の幣原首相に憲法改正を要求したのは1945年10月でした。幣原内閣は松本丞治国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会を設置して憲法改正に取り組みます。

松本氏は前回も述べたように元貴族院議員ですから民主主義を抑制するための二院制を維持しようとします。翌年2月1日に毎日新聞に発表された松本私案は次のようなものでした。①貴族院の名称を参議院とし、選挙又は勅任される議員で組織する。②衆議院が続けて3回、総議員の三分の二以上で可決した法案は参議院の議決がなくとも成立する。

選挙によらない議員を存続させ、衆議院の優位性に厳しいハードルを設けています。松本私案はGHQには受け入れがたいものでした。2月13日にGHQから示されたマッカーサー草案は「国会は選挙された一院で構成され、議員の定数は300人以上500人以下にする」というもので二院制廃止の方針でした。

GHQの考えは、そもそも二院制はアメリカ合衆国がそうであるように州の主権と国民の代表という二重代表の仕組みであり、連邦制でない日本が二院制を採る必要はない。イギリスの二院制は長年にわたり政治を紛糾させてきた経緯がある。日本が新制度を作るに当たり、二院が衝突する可能性は避けるべきだというものです。

マッカーサー案が示された頃、日本では政府以外にも様々な団体が憲法草案を作成していました。それらはいずれも二院制を前提にしていますが、衆議院の優位性についてはそれぞれ異なる考え方です。例えば「憲法研究会」という団体は、第一院は全国一区の比例代表制、第二院は職業団体や各階層から選挙で選び、第一院で2回可決された法案は第二院は否決できないという案を作りました。

「自由党」は衆議院に予算の先議権を認め、参議院で否決された法案は衆議院の三分の二で再議決できるというもので、現在の日本国憲法と似ています。「進歩党」は参議院は学識経験者と選挙で選ばれた議員で組織し、衆議院で2回可決すれば参議院の同意がなくとも法案は成立するとしています。「憲法研究会」や「進歩党」の考えは現在の日本国憲法より衆議院を重く見ています。

衆議院をチェックする第二院は絶対に必要だという松本氏の説得に負けて、GHQは選挙で選ぶことを条件に参議院の設置を認めます。こうして3月6日に作られた憲法改正草案では、衆参両院とも選挙で選ばれた議員で組織され、参議院が否決した法案は衆議院の三分の二で再議決ができるという今の形になります。

憲法改正案を審議した第90帝国議会で金森徳次郎国務大臣は参議院について、「多数党の一時的な勢力が弊害を起こすことの防止力としたい。知識、経験のある慎重・熟練の士を求めたい」と答弁しています。

第91帝国議会には参議院選挙法が提出され、参議院は各都道府県を選挙区とする地域代表と全国を選挙区とする学識経験のある人とで構成される事になりました。こうして1947年4月20日、第一回参議院選挙が行われました。その結果、貴族院議員が多数立候補した事もあり、参議院は貴族院の伝統を引き継いで政党政治に対する抵抗勢力としてスタートします。

全国区100名のうち57名、地方区150名のうち51名が政党に所属しない無所属議員でした。その無所属議員が最大会派「緑風会」を結成します。国民の選挙で選ばれた議員ではありますが、彼らは政党政治を低く見て、衆議院に対する抵抗を続けます。そのため戦後間もない日本政治は政権政党が思うような政治を出来ない状態になりました。衆議院と参議院とで与党と野党が異なる現在の「ねじれ」とは様相が異なりますが、しかし片山、芦田、吉田政権はいずれも重要法案を成立させる事が出来ない非力な状態が続くのです。(続く)