ニッポン維新(147)民主主義という幻影―33

造船疑獄事件の指揮権発動が、これまで言われてきたこととは逆に、杜撰な捜査で裁判に持ち込めない検察が政界に頼んで出させたという話は、最近では元特捜検事の郷原信郎氏も語っています。検察内部では知られた話のようです。ところがこの話がメディアに取り上げられる事はありません。そのため国民は相変わらずのマインドコントロールに取り込まれたままです。

かつてロッキード事件の取材を担当した時、私の教科書となったのは1973年に出版された『自民党疑獄史』(現代評論社)でした。それは複数の記者が匿名で執筆し、1954年の造船疑獄から1967年の日通事件までを取り上げています。本の帯には「札束政治暗黒の裏面史」、「自民党の利権あさりを赤裸々に抉る」とあり、当時のジャーナリズムの「疑獄事件」に対する視点が端的に示されています。

私はその視点を頼りに取材を進めました。しかし取材するうち自民党政治の暗部を暴く事より、事件の本質がすりかえられていく事に違和感を感じました。児玉誉士夫で始まった事件がいつの間にか田中角栄の事件となり、田中逮捕に列島中が沸き上がると、事件の出発点であるアメリカ軍需産業と秘密代理人との関係など国民の目から消えてしまいました。

東京地検特捜部は「中締め」と言ってロッキード捜査を終えました。事件の本筋を解明していないのですから「捜査終了」とは言えません。現場の検事の間からは未解明のまま捜査を終らせた検察幹部に対する不満が噴き出しました。しかしメディアの報道はまるで逆で、前総理を逮捕した特捜部を「最強の捜査機関」と持ち上げ、田中金権批判を一斉に始めたのです。こうして国民はロッキード事件を「総理大臣の犯罪」と思い込むようになりました。

国民をマインドコントロールにかけているのはジャーナリズムです。そのマインドコントロールから解き放たれるには、これまでジャーナリズムが提供してきた「疑獄史観」と民主主義に対する視点を検証してみる必要があります。そこでかつて教科書として読んだ『自民党疑獄史』を再び読み返し、何が問題なのかを考えてみたいと思います。

まずこの本が書かれた目的です。この本が書かれた時点で、与党自民党はすでに18年間も政権を維持してきました。日本は永久に「万年与党」と「万年野党」が続くのではないかと思われていました。自民党を倒さなければ日本の民主主義は実現されない。その思いがこの本を書かせています。

何が自民党の半永久政権を可能にしたのか。この本ではその原因を造船疑獄事件の指揮権発動に求めています。指揮権発動によって国民の激しい反発に遭い、追い詰められた自由党は日本民主党に「保守合同」を申し入れ、自由民主党が誕生する事になったとこの本には書かれています。つまり「正義の検察」を力でねじ伏せた政治権力が、国民の反発を利用してより強力な政治権力を作り上げたため長期政権が可能になったという訳です。

その視点に立てば、指揮権発動に敗れた特捜検察を応援し、特捜検察の恨みを晴らすように自民党の「巨悪」を逮捕させる事が日本に民主主義をもたらす事になります。国民が選挙によって政権を交代させるという民主主義のルールとは別に、検察権力を応援して政治家を逮捕させ、与党に打撃を与える事が民主主義を実現させると考えるのです。

これは通常の民主主義国に通用する理屈ではありません。国民主権の国家では国民の代表である政治家は何よりも尊重されなければなりません。捜査権を持つ警察や検察が自由に政治家を逮捕するようになれば、行政権力が意図的に政治を操れるようになります。むしろそうした事態を排除するのが民主主義の考えです。議員の不逮捕特権や大統領を訴追できなくする制度を世界の民主主義国は取り入れています。国家反逆罪や現行犯は別にして、不正を働いた政治家は国民が選挙で落選させれば良いのです。

アメリカ政治を見ていると、選挙期間中には候補者のスキャンダルが次々に暴かれますが、それを乗り越えて有権者の支持を受けた候補者は、政治家となった後まで同じスキャンダルで攻撃される事はありません。国民の審判が尊重されるからだと思います。

ところが日本では当選した政治家がその後も同じスキャンダル攻撃に遭う事が珍しくありません。政治家の力を削ぐ事が民主主義だと考えるメディアは、国民の審判を尊重するよりも政治家を貶める事を正義だと考えているからです。野党もそれに追随し、政策論争で国民の支持を得るよりも、スキャンダル追及で与党を攻撃してきました。

そうしたメディアと野党を見れば、国民がマインドコントロールに取り込まれていくのは当然です。それが日本の民主主義に「大きな勘違い」を生みだしてきました。(続く)