(90)国民主権を阻む壁―5

「55年体制」は衆参にまたがる与野党の「ねじれ」を解消させました。参議院の最大会派である「緑風会」のメンバーが保守合同後に続々自民党入りしたからです。元々「緑風会」の議員は旧華族、官僚、資産家の出身者が多く、考え方は保守的で政党政治を低く見ていました。しかし吉田総理は衆議院に官僚出身議員を増やし、それが官僚の中にあった政党政治を低く見る気風を薄れさせました。

1956年の選挙で自民党は参議院でも過半数を獲得します。それによって自民党は野党の反対で重要法案を成立出来ない悩みから解放されました。しかし今度は政権与党の自民党の中に衆参の対立が生まれます。

戦後の日本国憲法は参議院で否決された法案を成立させるために衆議院で三分の二の賛成が必要だと規定しています。極めて高いハードルです。参議院が法案成立に決定的な力を持っている事を参議院自民党は意識します。しかし与党の立場から内閣提案の法案を否決する訳にはいきません。そこで「つるし」という手法が生まれました。

「つるし」とは衆議院から送られてきた法案を速やかに審議入りせず、色々な理由をつけて放置しておく事です。国会には会期がありますから時間切れになれば法案は廃案になります。参議院の自民党は法案を否決する事は出来なくとも法案を廃案に追い込む事は出来るのです。

従って参議院が非協力の態度を取れば法案は成立しません。内閣総理大臣は参議院自民党の実力者に頭が上がらなくなります。1962年から3期9年間参議院議長を務めた重宗雄三氏は「重宗天皇」と呼ばれ、参議院は「重宗王国」と言われました。佐藤栄作総理がしばしば重宗議長のもとを訪れて頭を下げていたからです。佐藤総理は「参議院を制する者が日本の政治を制する」と語っています。

公明党は参議院で議席を有するところから政党をスタートさせました。「田中軍団」と呼ばれた田中派も参議院で多数を擁していました。それは日本の政治構造を理解していたからです。最近では小泉総理が青木幹雄参議院議員会長と手を組むことで自民党内の「抵抗勢力」と戦いました。衆参の「ねじれ」がなくとも、参議院の力を借りないと思うような政権運営は出来ないのです。

しかしこうした衆参の対立は与党の党内問題で、国民が衆議院選挙で多数を与えた政権が参議院の抵抗で立ち往生するという国民主権に関わる問題ではありません。しかし「55年体制」では衆参の対立とは別の所に国民主権を阻む深刻な問題がありました。

それは野党第一党の社会党が選挙に過半数の候補者を擁立せず、政権獲得を目指さない政党になってしまった事です。これでは国民が政権交代させようとして社会党の候補者を全員当選させても政権交代になりません。そのため万年与党になった自民党は自民党の中の権力闘争によって総理を交代させるようになりました。

中選挙区制は最大5人区まであったため、自民党は5人区に5人の候補者を擁立します。選挙では与野党よりも自民党の候補者同士の争いが激しくなります。こうして自民党には5つの派閥が生まれました。その5つの派閥のリーダーが総理の座を目指して争います。その権力闘争に国民は参加することが出来ません。

民主主義とは与野党が権力を巡って争い、そのどちらに権力を与えるかを国民が選挙で選ぶ仕組みです。つまり国民が権力の生みの親になれるのです。それが国民主権です。与野党は国民に支持されるよう政策を磨いて国民にアピールし、政策競争が生まれます。ところが「55年体制」にそのような仕組は全くありませんでした。

しかしメディアはそれを国民の目から覆い隠しました。政権獲得を目指さない社会党を「野党」と呼び、あたかも自民党と社会党の間で政権交代が行われるかのように、ことさら「与野党激突」を強調して報道しました。こうして「55年体制」は政治の安定を生み出す一方、国民主権は全く無視されました。しかし国民はその事に気付かず、日本を民主主義国と思っていたのです。(続く)