ニッポン維新(91)国民主権を阻む壁―6

政権交代を目指さない野党は与党を攻撃するだけで、与党に代わって国家を経営する政策を作る必要がありません。唯一国会のテレビ中継が行われる予算委員会は、予算を巡る議論よりも国民受けを狙うスキャンダル追及の場となりました。

国家の予算案は前年の年末までに内閣が決定し、年明けから始まる通常国会で審議され、3月末までに成立させなければなりません。そして予算委員会の冒頭2,3日を「基本的質疑」と言ってNHKがテレビ中継します。「基本的質疑」は何を質問しても良いことになっているため、「国民の税金をどう配分するか」、「無駄があるのではないか」という質問より、野党は「政治とカネ」の追及に力を入れました。

当時は「爆弾男」と異名をとる野党議員が追及の主役で、政府側の答弁を不服としてしばしば審議をストップさせました。そしてNHKの中継が終わる頃に野党は国会の審議を全て止め、予算成立ぎりぎりのタイミングとなる3月末まで国会は動かなくなるのです。それを新聞とテレビは「与野党が激突している」と報じました。

しかし裏側では与党と野党の幹部による1対1の交渉が始まり、国会に上程されている百本近い法案の帰趨が全て決まります。3月末に野党が審議復帰を決めると、国会の議論がないまま予算は大蔵省の原案通りに成立し、その他の法案も裏側で決まった通りに成立か、廃案か、継続になります。つまり「55年体制」の政治では、予算も法案も議論のないまま決められたのです。

それを可能にした第一が野党による「政治とカネ」の追及で、第二が審議しない事を「与野党激突」と報道して国民を騙した新聞とテレビです。その結果、官僚の思い通りの国家経営が実現しました。それが冷戦体制と相まって日本に高度経済成長をもたらしました。

国民主権を発揮させない仕組みが日本を世界の経済大国に押し上げたのです。よく「戦後の日本は戦時体制さながらに国民が一丸となって経済的利益を追求した」と言われますが、官僚を司令塔に政界と財界がそれに従う形で経済を追及したのが「55年体制」です。国民は経済発展に目を奪われて国民主権を発揮できない国を民主主義と錯覚しました。

しかしその構造は長くは続きません。冷戦が終わりに近づくとアメリカから「日本異質論」が声高に叫ばれるようになりました。冷戦の間は日本を共産主義化させないために日本の経済成長を許してきたアメリカが、冷戦の終焉によって「ソ連に代わる脅威は日本経済だ」と考えるようになったからです。

ベルリンの壁が崩れた1989年、消費税導入とリクルート事件が引き金となって自民党は参議院選挙で歴史的大敗を喫しました。「歴史的」と言うのは33年ぶりに「ねじれ」が復活したからです。前に説明したように参議院の誕生で「ねじれ」に散々苦しんだ片山、芦田、吉田政権時代を乗り越えたのが保守合同による自民党の誕生でした。

自民党が出来た事で衆参の「ねじれ」は解消され、政権は初めて安定しました。それからの33年間、世界は米ソ冷戦の時代でした。アメリカはソ連共産主義に対抗するためにヨーロッパでは西ドイツをアジアでは日本を経済大国にする必要がありました。そうした条件によって日本は高度経済成長を達成することが出来たのです。

日本の政治に再び衆参の「ねじれ」が復活した年が、ベルリンの壁が崩れた年だったというのは何とも象徴的です。日本は冷戦時代に受けた恩恵から脱して自力で生き抜く必要があります。しかし政治が強くならなければならない時に政治を混迷させる「ねじれ」が再び始まったのです。(続く)