ニッポン維新(155)情報支配―5

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1945年、太平洋戦争に敗れた日本は連合国軍(GHQ)の占領支配下に置かれました。GHQの中心を担ったのはアメリカで、ダグラス・マッカーサーが最高司令官となりました。GHQの占領政策の基本ははなぜ日本がアメリカとの戦争に踏み切ったかを分析し、その主たる要因を排除する事でした。

主たる要因と考えられたのは戦前の日本の政治制度です。中でも行政府が国民に対して責任を負っていない事が最大の問題でした。選挙で選ばれた国民の代表は「立法」に対して限られた権限しか与えられず、行政府は国会にではなく、天皇に対してのみ責任を負っていました。

そこでGHQは「行政府は選挙民または国民を代表する立法府に対して責任を負うものとする」を改革の第一に掲げました。天皇制を維持するにしても、「立法府の助言と同意に基づいて選任される国務大臣が、立法府に連帯して責任を負う内閣を構成し、天皇は一切の重要事項につき内閣の助言に基づいてのみ行動する」と規定しました。つまり選挙で選ばれた議員によって構成される立法府が国権の最高機関となり、立法府が内閣を選任し、天皇は内閣の助言に基づいてしか行動できないとしたのです。

その考えに基づいてGHQは日本の憲法改正案を作成しました。その中で内閣総理大臣は国会の多数決によって指名され、国務大臣も国会から「授権」されると規定しました。ところが日本側はGHQ案に抵抗しました。日本側の憲法草案作りの中心を担った法制局は戦前型内閣の継続を強く求め、細かな字句の修正を行なって、立法府による行政権力の制限を弱めようとしました。

例えば、GHQ案は「国会は唯一の法律制定機関」と規定しましたが、法制局案は「唯一の法律制定機関」という文言を削り、「「国会は立法権を行う」と変えました。GHQ案で「国会から授権」とされた国務大臣は、「国会からの授権」ではなく「法律によって定める」とされました。

内閣が国民に対して行なう命令を「政令」と言いますが、GHQは政令について国会が審査を行う事を要求しました。これに対して法制局は三権分立の建前から行政府は自由に命令が出せるとして国会の政令審査権を退けます。

GHQが内閣総理大臣の権限を強め、各省の大臣を指揮命令できるようにしようとした事にも法制局は抵抗しました。法制局はかつて天皇が占めていた地位を踏襲するのは合議体としての「内閣」であり「総理大臣」ではないと主張し、具体的な行政活動の最高責任者を各省大臣にしました。戦前の「単独輔弼制」が形を変えて生き残り、「縦割り行政」も継続される事になりました。

このようにGHQが立法府に権限を与えて行政権力を制限しようとした事に日本側はことごとく抵抗しました。そして法制局はGHQが作った憲法本文の規定を「原則論」にとどめ、内閣の組織・運営事項全般については別に「内閣法」を作って規定する事にします。

また日本の官僚たちは戦前の官僚制を引き継ぐ行政法の作成に取り掛かりました。明治憲法下の「各省官制通則」に相当するものとして、行政事務の分担管理を定める「国家行政組織法」が作られました。その結果、行政文書の管理もまた戦前のままとなりました。各役所は戦前と同様に職務に必要な文書だけを保存し、保存期間が過ぎた文書は破棄され続ける事になります。

新憲法によって「天皇の官僚」から「全体の奉仕者」に変わった官僚ですが、実態は戦前と同じままになりました。「税金を使って集めた情報は納税者に還元する」という民主主義の思想が生まれる事もありません。我々は学校でGHQによって戦後の日本は民主化されたと教えられますが、目を凝らしてみれば戦前の政治体制は戦後の政治の中枢に生き続けているのです。(続く)