ニッポン維新(156)情報支配―6

1934年に国立公文書館を設立し、民主主義の基本に従って公文書を国民に公開する制度を作ったアメリカが、日本の「民主化」を占領政策の目的にしながら、行政組織の改革に切り込まず、公文書の公開を日本政府に要求しなかった事をどう理解すべきでしょうか。

戦後、連合国に占領されたのは日本とドイツですが、統治の形は対照的でした。ドイツが直接統治だったのに対し日本は間接統治でした。つまり連合国が直接に日本を統治するのではなく、日本の官僚組織を利用して統治を行なったのです。

そのため公職追放の対象となったのも軍人や政治家が中心で、官僚の追放は一部に限られました。そして戦争遂行の中心的役割を担った内務省は分割・解体されましたが、その他の役所に手がつけられる事はありませんでした。

やがてアメリカとソ連が冷戦に突入し、アメリカはソ連情報を必要とするようになります。ソ連を仮想敵国としてきた日本とドイツの軍事情報を手に入れるため、アメリカは日本とドイツの旧軍人たちを諜報活動に協力させるようになりました。民主化とは逆行する政策を採るようになったのです。

歴史研究者の松尾尊兌氏は、当時のGHQは日本分析のため各役所の公文書を強制的に押収していた事から、公文書を保存し公開する制度を奨励する訳にはいかなかったのではないかと推測しています。

一方で敗戦の混乱が収まる頃から歴史研究者による歴史資料の収集が始められました。国立国会図書館に憲政資料蒐集係が設けられ、また文部省にも史料館が設立されました。日本歴史学協会は1958年に「国立文書館」の建設を日本学術会議に要望し、学術会議は政府に「公文書の散逸防止」を勧告するようになります。

その結果、日本でも1971年に国立公文書館が設立されました。しかし国立公文書館には法的な裏付けも行政機関に対する権限もなく、各役所が所持する文書を受け付けるというだけの存在でした。文書を公開する目的は「歴史研究のため」とされ、国民に対する情報公開とは無縁の存在でした。

日本で情報公開の必要性が強く認識されるようになったのは1970年代の後半からです。きっかけを作ったのはアメリカでした。1974年、ウォーターゲート事件で秘密工作に関与した疑惑を持たれ、ニクソン大統領が辞任しました。大統領の辞任はアメリカ建国以来初めての事です。その翌年、世界中に反戦運動を起こしたベトナム戦争にアメリカは敗れました。敗戦もアメリカにとって建国以来初めての出来事でした。

アメリカ国民はかつてない政治不信に陥り、政治改革が急務となりました。そうした中から「サンシャイン・リフォーム」と呼ばれる政治運動が生まれます。「日の当るところに腐敗は生まれない」を合言葉に「あるがままの国の姿を国民に見せる」事が民主主義の基本であると再認識されました。

それが「情報公開法」の制定につながります。行政府は国民から求められれば情報を公開しなければならない事になりました。また政治家、官僚、裁判官など税金を受け取る立場の人間は資産公開を義務付けられました。そして他人のお金を預る立場の人間は預けた人間に「アカウンタビリティ(説明責任)」があると考えられました。国民の税金を預る行政府の官僚と株主のお金を預る企業経営者は、納税者や株主の疑問に対し説明する責任があるという訳です。

こうしたアメリカの動きに日本も影響され、情報公開法の制定、資産公開、説明責任が求められるようになりました。ところがこれらの考えが日本に輸入されると中身がアメリカと違ってくるのです。例えば資産公開は、アメリカでは官僚や裁判官にも義務付けられますが、日本では政治家だけが対象となります。官僚や裁判官には適用されないのです。

説明責任もそもそも官僚と企業経営者に求められるものですが、日本では官僚よりも政治家に強く求められるようになりました。説明責任(アカウンタビリティ)は会計用語で、預けた資金に関する説明です。それが日本では政治家に求められるのです。

政治は基本的に交渉事ですから手の内をさらけ出す訳にはいかない事が多々あります。そして政治に求められるのは「結果責任」です。最終的に国民の利益になる結果を出せれば評価されるのです。決して途中での説明ではありません。ところが日本では何かにつけて政治家の説明責任が問われるようになりました。

一方、納税者に説明責任があるはずの官僚に国民が説明責任を求めているように見えません。ほくそ笑んでいるのは官僚です。政治家が官僚の防波堤となり、説明責任の追及を受けてくれれば官僚は安泰だからです。そして官僚にとって最も実現して欲しくない情報公開法はなかなか実現しませんでした。(続く)