ニッポン維新(157)情報支配―7

最初に情報公開法の制定に積極的だったのは大平正芳総理大臣でした。1980年1月の施政方針演説で情報公開法制定を打ち出し、5月には各省庁に「公文書閲覧窓口」が設けられました。また各省庁の公文書を国立公文書館に移管する取り決めもなされました。しかし大平総理が急逝するとそこで動きは止まります。

そもそも長期単独政権を維持してきた自民党は情報公開に消極的でした。政権運営のためには行政情報を独占する方が有利だからです。霞が関の官僚組織は「日本最大のシンクタンク」と称されるように、あらゆる情報を独占的に所有しています。アメリカには官僚組織以外にも民間のシンクタンクが存在し、情報の切磋琢磨が行なわれていますが、官僚が強い日本には残念ながら民間のシンクタンクを育てる土壌がありません。

従って自民党政権時代の官僚機構は自民党には情報を流しますが、野党にはレベルの低い情報しか流しませんでした。それが政権交代のない政治構造を生みだす原因の一つでもあります。官僚の力の源は情報を独占している事ですから、情報公開が認められれば官僚機構の力は弱まります。従って自民党と官僚には情報の独占的利用という共通の利害がありました。

大平総理が情報公開に積極的だったのは党内の権力基盤が弱かったためです。「40日抗争」が有名ですが、自民党では大平派と福田派の激しい権力闘争が繰り広げられていました。その権力闘争に勝つため、大平総理は野党を味方につける必要があり、当時の野党が要求していた情報公開法の制定に前向きにならざるを得なかったのです。

一方でロッキード事件やグラマン事件などの政治スキャンダルによって、行政の透明化を求める国民の声も次第に高まってきました。それは自民党の長期単独政権に対する不満と重なっていきます。また日米貿易摩擦で日本の経済構造を敵視するようになったアメリカからも「日本は異質な国で政官財が癒着している」との批判が向けられました。そうした状況が情報公開法の制定を後押しするようになります。

情報公開法が現実の課題になったのは、自民党の長期単独政権が崩壊し、細川護熙政権が誕生した1993年です。「反自民非共産」の8党派が交わした連立の覚え書きに「行政情報公開の推進」が盛り込まれ、細川政権は「情報公開」を「行政改革」の一つと位置づけました。

この流れは細川政権が終っても変わらず、自社さ連立の村山富市政権に引き継がれました。こうして情報公開法は国会で三度の継続審議の後、99年5月に成立し、2001年の4月から施行される事になったのです。

この法律の制定によってそれまでは各行政機関に情報公開を「お願い」するしかなかった国民が、法的な権利として情報公開を「請求」出来るようになりました。これは日本の民主主義にとって画期的な事です。しかし前にも書きましたが、実態にはかなりの問題がありました。

私の経験では個人情報を理由に黒く塗りつぶされる箇所が多く、決して満足できるものではありませんでした。それを変えていかなければなりません。情報公開は国民が主体となる政治を実現するために絶対に必要なことだからです。何も知らない国民が責任ある判断を下せるはずはありません。国民が行政情報を吟味する事が出来て初めて間違いのない意思決定が可能となるのです。それがつい10年ほど前から始まりました。日本の民主主義はこの時にようやくスタートラインについたと言えます。(続く)