ニッポン維新(159)情報支配―9

2008年2月、福田総理は上川陽子少子化担当大臣を「公文書管理担当大臣」に任命し、さらに「有識者会議」を設けて公文書管理法制定に向けた動きを本格化させました。それまで情報公開法を担当していたのは総務大臣ですが、公文書管理法を内閣府特命担当大臣にやらせたところに大きな意味があります。

明治の「単独輔弼制度」を由来とする官僚機構の「縦割り行政」のままでは、総務大臣が担当すれば、横並びの役所がバラバラの主張を行い、公文書管理法はまとまらなかった可能性があります。内閣府特命担当大臣が担当したからこそ公文書管理法は成立したのです。それが何故かを説明するためには、時計の針を少し戻してわが国の政治改革の流れを振り返る必要があります。

戦後の「55年体制」は官僚組織と与党自民党が一体となり情報を独占する仕組みでした。法案は官僚によって作成され、それを族議員が後押しすることで成立しました。官庁のトップである大臣は省益を守るための「利益代表」に過ぎず、国家の最高責任者である総理大臣もやりたい政策をトップダウンで実現する事は出来ませんでした。

しかも中選挙区制によって政権交代のない政治が続き、国民が政策を選択する事も出来ません。そのため国民に情報を公開する必要はないと与党政治家も官僚も考えていたのです。国民主権とはほど遠い政治構造が続いてきました。

しかし「55年体制」は世界の冷戦構造に支えられており、冷戦が終れば継続できない仕組みでした。それを見抜いていたのが小沢一郎氏です。自民党の中枢を歩んできた小沢氏は「55年体制」を内側から知る立場にあり、冷戦後の世界を日本が生き抜くためには統治構造を変えるしかないと考えていました。

自民党にいれば間違いなく総理大臣になった小沢氏は、それまでの統治構造を変えるために自民党を飛び出し、政治改革に取り組みました。官僚と族議員が結託する政治を終らせ、総理官邸の機能を強化して総理大臣がリーダーシップを発揮できる体制にするため、与党と内閣の一体化、議員による国会審議の活性化、政権交代を可能にする小選挙区制導入の実現などを国民に訴えます。

小沢氏らの離党によって、結党以来38年間権力を握ってきた自民党は、初めて政権の座から転落しました。こうして「55年体制」は終わり、細川連立政権が誕生して小選挙区制導入に道を開きました。戦後日本の政治構造はここで初めて変わりました。その細川政権を誕生させるために交わされた8党派の覚え書きの中に「情報公開法の制定」が盛り込まれていたのです。国民主体の政治を可能にする情報公開法はこうして現実の課題となりました。

小沢氏の他にもう一人政治主導の実現に力を入れた政治家がいます。橋本龍太郎衆議院議員です。橋本氏は「行革族」として行政改革に力を入れていましたが、総理に就任すると中央官庁の数を減らし、官邸機能を強化して総理のリーダーシップを強めようとしました。

内閣法が改正され、内閣は国会の指名に基づいて任命された内閣総理大臣を中心に組織される事が明記されました。総理大臣には政策の「発議権」が与えられ、内閣官房は企画立案が出来るようになりました。内閣府が各省庁の総合調整機能を行なうようになり、調整を行なう特命担当大臣を置く事が可能となりました。

ただ各省庁の抵抗により、「縦割り行政」の大本である役所の分担管理原則は変更されず、縦割り行政を続けようとする各省庁と、そこに「横串」を通そうとする内閣府との綱引きが始まります。そうした中で福田総理のリーダーシップにより、公文書管理法は特命担当大臣が各省庁に横串を通す形で作られる事になったのです。(続く)