ニッポン維新(161)情報支配―11

日本の新聞とテレビは情報源のほとんどを霞ヶ関や地方自治体に置かれた記者クラブに頼っています。「官庁発の情報がなければ新聞紙面の7割は真っ白になる」と言われるほどです。日本では記者が足で歩いて取材する記事よりも役所が発表する「発表もの」にメディアの軸足が置かれています。

外国で「発表もの」を取材し報道するのは主に通信社の役割です。新聞社やテレビ局は通信社から記事を買い、「○○発」とクレジットを付けて報道するのが普通です。ところが日本の大手新聞社やテレビ局は自社の記者を記者クラブに張りつけ「発表もの」を自前で書く体制をとっています。そのため日本では「発表もの」に軸足が置かれているのです。外国にも記者クラブはありますが、新聞記者の基本は足で歩いて取材した記事を署名入りで書く事です。記事の個性を競い合うのが仕事です。署名入りですから読者は記者の取材能力を判定出来ます。読み応えのある記事を書く記者が多ければ新聞は売れます。新聞経営の第一は取材能力のある記者を他社から引き抜いてくる事です。

ところが日本では誰が書いても同じ内容の「発表もの」ですから署名は要りません。また特定の記者の記事を読みたくて新聞を買う読者もおりません。宅配制度の日本では記事の中身より販売店のサービス合戦で購読が決まります。そうした構造から生み出されてくるのは個性を競うよりサラリーマン意識に染まる記者たちです。日本の記者は取材者というより高給取りのサラリーマンなのです。

記者の仕事は記者クラブに出勤して役所の「発表」を待ち受ける事から始まります。そこから誰が書いても同じ内容の記事のために争うことはやめようという気が起きます。抜け駆けをせずみんなで仲良く仕事をするのが第一になるのです。それが日本の記者クラブに特有の体質を生み出しました。

いわゆる談合体質です。役所の「発表」に解禁日を設け、抜け駆けをさせない協定を結びます。違反した記者は記者クラブから締め出されます。記者クラブは個性ある記者の存在を縛るようになりました。

横並びの「発表もの」に満足せず、役所に不満を持つ官僚に食い込んで、「発表もの」とは異なる内容の記事を書く記者が現れたとします。その記者によってたちまち記者クラブの平和は破られ、各社の記者も後追い取材をせざるを得なくなり、取材合戦が勃発します。読者からすれば喜ばしい話ですが、記者クラブにとってはうれしくない話です。

協定違反ではないので記者クラブから締め出されはしませんが、意慾的な記者はクラブの平和を乱したため「村八分」に遭います。そして情報を提供した官僚もろとも役所からも睨まれてつらい立場に立たされます。私が現役時代に優秀だと思った記者はみな記者クラブの中で孤独の戦いを強いられていました。

メディアの最大の情報源である官僚機構にとってこれは誠にありがたい話です。自分たちの発表どおりに報道してくれれば、国民を思い通りに操作する事が出来るからです。従って官僚機構は記者クラブを大事にし、記者クラブも官僚機構との関係を大切にします。こうして記者たちは官僚機構に取り込まれていくのです。

無論、「発表もの」だけで世論を操ることはできません。したたかな官僚機構は時には意慾的な記者を利用して世論操作を行います。他社には内緒の情報をリークしてスクープ記事を書かせます。スクープとなれば記事の扱いも大きくなり世間の耳目を集めます。他社も後追い取材をせざるを得なくなり、リークは「発表もの」とは一味違う世論操作を可能にします。この二つの手法を使い分けて官僚機構は記者たちを操るのです。

官僚機構とメディアの癒着関係が表に出る事は絶対にありません。メディアにとって最大の恥部と認識しているからです。あるメディアと官僚機構の不適切な関係を他のメディアが知ったとしても、メディア同志は黙っています。もし暴露すれば暴露したメディアの恥部もまた暴露されるからです。

福島の原発事故で「原子力ムラ」の存在が明らかになりました。電力会社と行政と学者が「ぐるみ」の関係を作っていて、誰も問題点を指摘しない構造が浮かび上がってきました。監視する者とされる者とが癒着した「ムラ」の存在が深刻な大事故を引き起こしましたが、メディアの世界にはそれ以上の「ムラ」が厳然と存在しているのです。(続く)