ニッポン維新(162)情報支配―12

日本のメディアが足で取材した事実より官僚機構の「発表」を重視する端的な例を紹介します。2010年10月3日、NHKは「スクープドキュメント 核を求めた日本~被爆国の知られざる真実~」と題するドキュメンタリー番組を放送しました。被爆国日本がかつて核武装を計画していたという衝撃の「スクープ」です。番組は死を目前にした外交官が秘密にしてきた事実を暴露するところから始まりました。2010年3月にがんで亡くなった村田良平元外務事務次官が死の1か月前にテレビカメラに向かい、佐藤政権下で日本が核武装を計画していた事実を明らかにしたのです。村田氏は秘密を実名で明かす動機を、「ごまかしが闇の中に消えてしまう。日本の中で核の脅威を頭に入れた真剣で真面目な議論を巻き起こさなければならない」と語りました。

村田氏の証言を基にNHK取材班は取材を始めます。核武装計画の背景にあったのは1964年に中国が核実験に成功した事でした。佐藤総理はアメリカのジョンソン大統領に「中国が核兵器を持てば日本も核兵器を持たざるを得ない」と申し入れます。しかしアメリカは日本の核武装に反対し、逆に中国も含めた米、ソ、英、仏の5か国だけが核兵器を独占する核拡散防止条約(NPT)を批准するよう日本に迫りました。第二次大戦の戦勝国だけが核兵器を持てるようにしようとしたのです。

「永久に2流国として扱われてしまう」と日本は反発しました。日本は同じ立場の西ドイツと協力して核保有を図ろうとします。当時、外務省調査課長をしていた村田氏は西ドイツ外務省のエゴン・バール氏と連絡を取り合いました。第二次大戦で同盟関係にあった日独の話し合いは極秘を要しました。1969年2月、両国の外交関係者は人目を避けて箱根の旅館に集まります。

その極秘会談で日本は「中国、インドが核を保有すれば、日本も核を持たざるを得ない。日本は原子力の平和利用を認められており、いつでも核兵器を作ることが出来る」と西ドイツに伝えました。一方、東西ドイツに分断され、冷戦の最前線にいた西ドイツは核保有に慎重で会談は平行線のまま終わりました。その模様は西ドイツ政府の公文書に残されており、エゴン・バール氏もNHKの取材に事実関係を認めました。

日本の核プロジェクトの中心にいたのは内閣調査室です。当時の内閣調査室員の証言とメモによって、日本政府が核物理学者や安全保障の専門家を集め、核保有を検討したことが明らかにされました。検討の結果、日本の核武装は容易だが、アメリカや周辺諸国の反応、それに国民感情を考えると難しいと結論付けられました。
こうして日本は核保有を諦めアメリカの核の傘の下に入ることになりました。佐藤総理は「核を持たず、作らず、持ち込ませず」の非核三原則を宣言して、後にノーベル平和賞を受賞します。しかしアメリカの核の傘に入った日本はアメリカの核政策に協力するよう強制されます。国連での核軍縮決議に賛成する事が少なくなりました。日本は被爆国でありながら「核廃絶」に向けた具体的な行動もとらなければ、核に関わる現実的な議論もタブー視するようになりました。

戦後日本のあり方を鋭く突く番組でした。これに新聞とテレビはどう反応したのでしょうか。何も反応しませんでした。当のNHKも含めてすべてのメディアがニュースで取り上げる事はなかったのです。国民が知らされずに来た事実の発掘は「ニュース」に値すると私は思いますが、日本のメディアはそうではありませんでした。

ところが2か月近く経った11月29日、日本の外務省が箱根で行われた秘密会合を認める調査結果を発表しました。すると新聞とテレビが初めて一斉にニュースで取り上げたのです。外務省の発表は、当時の外務省幹部の中に「核保有論」があった事を認める一方、政治の関与は不明とするものでした。

NHKの番組では当事者の証言と極秘文書によって政治の関与を裏付けています。しかし外務省が政治の関与を不明と発表した事でメディアの報道もそうなりました。番組が放送されてから2か月間、メディアは誰も後追い取材をせず、ひたすら「お上」の「発表」を待っていたのです。そして西ドイツ政府が公文書にしていた事実を日本は公文書にせず、外交官個人の記憶の中だけに存在していた事もわかったのですが、メディアは誰もそれを問題にしませんでした。

官僚機構の発表に軸足を置いてきた日本のメディアは、官僚機構の許容範囲を見定めてからでないと原稿を書く事ができない体質になってきているのです。3・11の後、「原子力災害対策本部」の議事録が作成されていない事が分かってもすぐにニュースにしなかったのもこの体質によるものです。

村田氏は勇気をもって日本政府の秘密を暴露しました。国民が核を巡る現実をタブー視せずに議論する事が、世界を核の脅威から救う道につながると考えたからです。しかし日本のメディアは村田氏の証言やNHK取材班の足で歩いた調査より官僚機構の発表に軸足を置き、村田氏の意図は封じ込められていったのです。(続く)