ニッポン維新(166)情報支配―16

私が記者クラブで仕事をしたのは1970年代半ばから80年代にかけてです。その時代は官僚機構のメディアコントロールが強くなる反面、痒いところに手が届くようなサービスも強化されました。
例えば報道用の発表文が変わりました。昔は官僚特有の言い回しや難解な法律用語が多く、とても国民が理解できる文章ではありませんでした。それがそのまま記事に使える文章に変わったのです。記者としては「官僚用語」を国民向けに翻訳する手間が省けるようになりました。また新聞中心だった広報体制がテレビも意識するようになり、「てにをは」を少し変えればそのまま放送に使える「話し言葉」の文章も用意されるようになりました。官僚機構が広報体制に力を入れた事は記者クラブと官庁との無用な摩擦を和らげる一方、メディアと官僚機構との緊張関係を薄めさせ、もたれ合いの関係を生み出します。
またこの時代は日本のメディア界が大きな変貌を遂げた時代でもありました。大新聞と民放テレビ局がすべて系列関係に組み込まれ、そのためメディア同士の相互批判がなくなり、それがまた官僚の情報支配を強めさせる結果を招いたのです。
先進民主主義国では言論の多様性を確保するため、メディア同士の相互批判を失わせないようにします。従って大新聞社と全国ネットのテレビ局が系列関係になる事を認めません。ワシントン・ポストやニューヨーク・タイムスが三大ネットワークと系列関係になる事はありえないのです。
ところが日本では、何の国民的議論もないままにすべての全国紙と民放ネットワークが系列関係になりました。議論がないため国民はそれが何を意味するのか分かりません。誰もが理解しないままメディア同士の系列関係が受け入れられていきました。
日本に本格的なテレビ時代を到来させたのは、39歳の若さで郵政大臣に就任した田中角栄氏です。大臣に就任するや全国43局のテレビ大量免許を行い、その後も各都道府県に複数の民放局が免許されていきました。その許認可権を握った田中角栄氏は政治力を強めていく事になります。
次々に免許されていく地方テレビ局を見て、自らの系列下に置こうと動き出したのが大新聞社でした。大新聞社は幹部が田中角栄氏に働きかける一方で、免許を与える旧郵政省の記者クラブには「波取り記者」と呼ばれる記者を配置しました。
「波取り記者」の仕事は記事を書く事ではありません。テレビ免許の動向を探り、自分の社の系列局を増やす工作を行います。そのため「波取り記者」には官僚に睨みの効く年配の記者が配置されました。その記者たちは、若手の官僚を捕まえると「お前は何年入省だ。俺はその前からこの役所の事は知っている。人事を動かす事だってできる」などと脅しをかけ、様々なサービスを要求するのです。
国会内で大臣会見が開かれる時には国会と役所の移動にタクシーを用意させ、広報部員は毎日のように囲碁や将棋の相手をさせられ、時には銀座で接待もさせられるとぼやく官僚もおりました。私が在籍した頃の旧郵政省記者クラブも司法記者クラブとは別の意味で異常な記者クラブでした。
日本のテレビはイギリスのBBCを下敷きにしたNHKと、アメリカを真似た民間放送との二元体制で運営されています。しかし民放として最初に免許された日本テレビは読売新聞社の系列でした。日本の民放テレビは初めからアメリカとは異なる構造で始まったのです。
それは冷戦の始まりを受けて日本を反共の防波堤にしようと考えたアメリカの意向です。アメリカはCIAの協力者である読売新聞社主の正力松太郎氏に電波を与え、反共宣伝に利用しようとしたのです。これがいびつな構造の始まりでした。
しかし続くTBSはどの新聞社にも属さない独立のテレビ局として免許されました。ところがその次のフジテレビがまた産経新聞社の系列でした。アメリカのテレビは三大ネットワークですから日本もそこで民法テレビは打ち止めです。その後に作られたのはいずれも教育専門局のNET(日本教育テレビ)と東京12チャンネルでした。
ところが読売と産経だけがテレビ系列を持つ事に不満を抱いた朝日新聞社は、1972年に田中角栄氏が総理に就任すると、教育専門局のNETを普通のテレビ局に変え、自分たちの系列下に置こうと働きかけを始めました。それが認められるとその余波で東京12チャンネルも教育放送でなくなり日本経済新聞社の系列に入ります。そして唯一の独立局であったTBSも毎日新聞社の系列にさせられました。
こうして70年代の半ばに大新聞と民放ネットワークの系列関係が完成します。これでテレビと新聞の相互批判はなくなり、また国から自由であるはずの新聞社が免許事業を系列に持つことで国家の管理下に入る事になりました。先進民主主義国には見られないメディアの構造が作られたのです。(続く)