10月28日(火)
モルガン・スタンレー証券のロバート・アラン・フェルドマン氏は2002年夏、「『脱ダム』宣言」はダム建設の単なる可否を超えた、既得権益の溶解へと繋がる“脱ムダ宣言”。不信任決議を経て田中康夫が選択した出直し知事選の帰趨は、日本経済が効率性を高められるか否かの重要な政局。と同社のレポートで看破した畏兄。
その彼は時事通信社が主宰する内外情勢調査会で27日、政府・与党の市場安定化策は玉石混淆と看取。別けても首相麻生太郎、財務・金融担当大臣中川昭一が大言壮語する時価会計凍結こそは、「企業会計に対する信頼を損なう」と喝破。同様の懸念を抱く僕も、鳩山由紀夫幹事長に講釈を行う。
農林中金=農林中央金庫と新銀行東京の2金融機関を「除外」すべし、との菅直人代表代行が唱える市民運動家的言説こそは、感情的・恣意的狙い撃ちに過ぎず。所詮は“労働貴族”の代弁者=民主党なのね、と大都市圏に於ける「日本経済新聞」購読者の支持を益々、低下させるのみ。
然らば、公的資金投入に際し、経営者責任の明確化を、との主張も、刑罰なのか辞任なのか減給なのか、更には該当者の範囲は、と裁量行政の如き曖昧模糊たる、判断基準無き遠吠えで終わる可能性大。即ち、的確な認識・迅速な決断・明確な責任の何れもが欠落した旧態依然たる政官業のアンシャン・レジームにとって誠に有り難き、抜け道だらけの方策。
とするならば、フェア=公正でオープン=自由でロジカル=真っ当な経済社会を、冷酷ならぬ冷静・冷徹に強化する上でも、急がば回れ、真綿で締め上げるが如く、時価会計の堅持こそが「脱ダム」同様、馴れ合い横行の島国経済を変容させる触媒たり得る。
阿部重夫「FACTA」編集長ブログを引用すれば、「企業が保有する金融資産を期末時点の流通価格で再評価する」のが時価会計。「1億円で買った株式が期末に半値に下がったら5千万円の損を計上する。購入した時点の価格(簿価)で計上していると、時価との差額が常に『含み損』『含み益』になるから、時価会計の方が実態を反映して企業財務の健全性に資する」。
 身近な事例で喩えれば、5千万円で購入した集合住宅のローンを完済した人物が、その資産を担保に新たな融資を求める場合、金融機関は資産再評価=デュー・デリジェンスを行う。仮に実勢価格が3千万円に下落の場合、それを基準に融資額を決定する。ならば、金融機関に対しても同様のリスクを負わせるべき。その触媒たり得るのが、時価会計の堅持。
 知事時代に痛感したのは、県庁を頂点とする“もたれ合い”ピラミッドの裏側には、地銀・信金・信組・信連が睥睨する地域経済界のヒエラルキーが存在する厳然たる公理。即ち、忌むべき身分制度たる「士農工商」を「官金工商」と置き換えたなら、多くの読者も大きく頷くに違いない。因みに信連とは、県信連なる符丁で知られる信用農業協同組合連合会。
再び引用に戻れば、「金融機能強化法改正に拠る公的資金の資本注入と時価会計凍結、更に自己資本比率規制緩和という『無花果の葉』で、地域金融機関は当座を凌ごうとしているに過ぎない。だが、隠せば隠す程、疑心暗鬼は募る」。「地銀等は地元取引先との持ち合い株を多く保有している。それが軒並み評価損では経営責任に直結する」。然れど、「持ち合い株という“塩漬け”リスク資産を圧縮しない限り、地銀の中小企業向け融資の貸し渋りや貸し剥がしの根本原因は無くならない」。
 而して、堤伸輔「フォーサイト」誌編集長も慨嘆するが如く、「国民のお金で不良債権の淵から救い上げられた日本の金融機関が、その後、何をしているか。私達は知っている。顧客の利便性は何ら改善されていない事を。一時、大人しくしていた銀行のトップ達が、高額ボーナスを復活させ、億に近い年収を楽しんでいる者も居る事を。この金融危機の折に、『貸し渋り』に出て中小企業を苦しめている事を。そして、1兆円かそれに近い業務利益を出している3大メガバンクが法人税法上の規定を理由に、この6年間、法人税を支払っていない事を」。
 誰もが抱く義憤を義憤で終わらせず、気付いた時には中央・地方を問わず、「官」と「金」の牛耳る既得権益ピラミッドが溶解し、消費者と生産者の双方がWin・Winな社会的公正と経済的自由の達成を実現する上でも、時価会計の堅持は必須。それでこそ結果として、民主党を始めとする野党が声高に唱える投機集団・農林中金と迷走集団・新銀行東京の経営責任・運用責任・創設責任を白日の下に晒す成果を齎す。