ニッポン維新(177)09年政権交代を総括するー5

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日米貿易摩擦が激しかった時代、自民党政権はアメリカの要求をすべて受け入れた訳ではありません。受け入れられない要求には野党の反対を理由に抵抗しました。そのため野党に一定程度の議席数を与える必要がありました。当時の自民党幹部は「社会党の議席数を極端に減らす事は国益にならない」と語っていました。
労働組合と経営者が社内で対立しても、外部との競争では一致団結するように、自民党はアメリカと対立する場面では秘かに社会党と手を組んでいたのです。アメリカは民主主義の国ですから国民が反対していると言われればゴリ押しはできません。
例えばコメの自由化問題で、アメリカは自民党の支持基盤が農村にあり、しかも野党の反対も強い事から強い要求を控えてきました。ところが86年の衆参ダブル選挙で自民党が圧勝し、中曽根総理が「自民党は都市にも支持基盤を広げた」と演説した途端、アメリカは強硬姿勢に変わります。巨大与党となった事で自民党は抵抗力をなくしたのです。
水面下で社会党と手を組みながら抵抗する自民党にアメリカは手こずりました。しかも官僚機構と経済界が一体となってこれを支えています。それが世界一の債務国にアメリカを転落させた理由だとアメリカは考えます。冷戦時代には自民党政権を続けさせる必要がありました。しかし冷戦が終わればその必要はなくなります。アメリカは日本の政権交代を望むようになりました。
冷戦が終わると、日本では政権交代を可能にする小選挙区制導入が最大の政治課題になりました。それを巡って宮沢政権不信任案が可決され自民党は分裂します。その直後に来日したクリントン大統領は、選挙前にもかかわらず、自民党から野党に転じた政治家たちを大統領主催のパーティに招待し、政権交代に対する期待感を表明しました。
総選挙の結果、自民党は比較第一党の座は守りますが過半数を失い、初めて野党に転落します。日本の政権交代をアメリカは歓迎しました。しかし自民党に代わる細川政権がアメリカの思い通りになる政権ではない事が次第に分かってきます。しかもバブル崩壊後の日本経済は失速を続け、かつてのような「脅威」ではなくなりました。
むしろ冷戦時代に東西両陣営のピラミッドの底辺にいた途上国の活力が注目されるようになり、アメリカは中国をはじめとするアジア諸国の経済力を利用しようと考えます。冷戦末期の「ジャパン・バッシング(日本叩き)」は、「ジャパン・パッシング(日本無視)」に変わりました。
経済の低迷と呼応するように日本の政治も混乱が続きます。細川総理の突然の辞任によって再び自民党に政権は戻りますが、村山、橋本、小渕、森と総理の顔はめまぐるしく変わり、日米関係も漂流を続けました。そうした流れの末に登場したのが、アメリカによる日本の国家改造計画を積極的に受け入れ、ドイツ、フランスなど国際社会が反対したイラク戦争を支持する小泉政権でした。
一方で世界は冷戦後に見合う体制に変化していきます。ヨーロッパでは93年に欧州連合(EU)が発足し、アメリカに対抗しうる経済圏が誕生しました。EUの統一通貨ユーロは世界の基軸通貨を目指し、フランスのシラク大統領がイラクのサダム・フセイン大統領との間で石油の決済をユーロで行う事を決めます。ドルの基軸通貨体制を揺るがす事態です。アメリカは大量破壊兵器の存在をでっち上げてイラク戦争を始め、サダム・フセインを抹殺しました。
冷戦後はかつての東西対立のように単純な二極対立では捉えられない世界です。ある問題では味方でも別の問題では敵対する。その敵と味方が状況次第で頻繁に入れ替わります。その複雑な構図の中で国益同士がぶつかり合っているのです。そしてヨーロッパにアメリカに対抗しうる経済圏が出来た事で、アジアにも冷戦後に見合う「東アジア共同体」構想を生み出しました。(続く)