ニッポン維新(183)09年政権交代を総括するー11

鳩山総理が沖縄普天間基地の移設先を「最低でも県外」と発言した事がアメリカの怒りを買い、日米関係を最悪にしたと言われています。しかし当時駐米大使をしていた藤崎一郎氏は「それが日本の民意であればアメリカは受け入れた」と語っています。また民主党で日米交渉に携わった長島昭久議員は「アメリカが怒ったのは普天間問題ではなく、岡田外相が東アジア共同体にアメリカを入れないと発言した事だ」と述べています。冷戦後のアメリカ政治を見てきた私は、鳩山総理が日本国民の意思として方針を貫けば、アメリカは受け入れる可能性があると思っていました。しかし鳩山総理は自らの閣内をまとめる事ができず、外務省と防衛省の官僚たちが総理に同意しないようアメリカ側に働きかけ、ついには迷走を重ねてしまうのです。アメリカが馬鹿にしたのは辺野古移設を変更する事よりも日本政府のバラバラぶりにあったと思います。
そもそも普天間基地の移設問題はアメリカが言い出した事ではありません。1995年に米海兵隊員ら3名が12歳の少女を暴行する事件が起き、沖縄県民の反基地闘争が頂点に達しました。橋本総理は沖縄県民の怒りを鎮めるため市街地に隣接して危険度の高い普天間基地を返還するようアメリカ側に要求します。するとアメリカは海兵隊を沖縄から撤退させ、豪州などに移設する案を検討し始めました。アメリカは海兵隊の活躍の場を東アジアではなく中東地域と考えており、沖縄駐留に固執する必要はなかったからです。
しかし日本は代替施設を沖縄県内に作る事にします。それによって沖縄は新基地建設予算が投入される利権の島となりました。沖縄に関係のない自民党幹部まで次々沖縄に事務所を開設し、大手ゼネコンや地元建設業者たちが暗躍するようになります。海上ヘリポート案、メガフロート案、埋め立て案など様々な建設案が浮上して利権をめぐる争いが起き、アメリカはそれを呆れて眺めていたと言われています。
06年にようやく辺野古沖に2本の滑走路を作る事で日米は合意しますが、アメリカはソ連を敵とする冷戦時の米軍配置を世界規模で見直す作業に取り掛かっていました。沖縄の海兵隊もグアムに移転させる事になり、アメリカは自民党政権に2兆円規模の移転費用を要求してきます。米軍が本国に帰還する費用を日本国民の税金から拠出する話に自民党政権は苦慮していました。
そうした中でアメリカにイラクからの撤兵を掲げたオバマ政権が誕生し、日本にも政権交代を賭けた総選挙が始まりました。民主党は普天間基地の県外移設をマニフェストに掲げてはおりませんが、選挙戦で鳩山代表は「最低でも県外」と沖縄県民に約束します。アメリカに「米軍撤退」を主張するオバマ政権が誕生した事で、海兵隊のグアム移設に拍車がかかると期待したためと思われます。
鳩山政権はインド洋の給油活動をやめる代わりに、アメリカのアフガン戦争に50億ドルの資金援助を決定しました。その中に海兵隊のグアム移転費用を紛れ込ませたつもりでいたと言われています。しかしオバマ政権の国務長官は普天間移設で日米が合意した時の大統領夫人であるヒラリー・クリントン氏、国防長官は共和党のビル・ゲーツ氏でした。国務省も国防省も自分たちが合意した辺野古移設の方針を簡単には変更する筈がありません。またオバマ大統領も理想を語るだけの政治家ではありませんでした。
オバマ大統領はイラク戦争に反対し「米軍撤退」を掲げて大統領予備選挙に出馬しますが、予備選挙での勝利が確実になると「米軍撤退」を「戦闘部隊撤退」と言い換えます。軍隊は様々な業務を行う兵隊で構成される小宇宙です。戦闘を行うのはその中の一部に過ぎません。つまり「戦闘部隊撤退」と言い換えた事はイラクからの全面的な米軍撤退を修正し、時間をかけて段階的に撤退させる現実路線に切り替えた事を意味します。
選挙では理想を掲げても実務は現実と調和させながらやっていく現実主義者の大統領と鳩山総理の政治手法の間には大きな差がありました。それを鳩山総理は見誤ったと思います。しかも最悪だったのは自らの主張を取り下げて県外移設の方針は間違いだったと頭を下げた事です。選挙で約束した事を実現出来なければ政治家は何も言わずに責任を取るものです。それを国民との約束は間違いだったと言って鳩山総理は辞めたのです。救われないのは国民でした。(続く)