ニッポン維新(98)国民主権を阻む壁―13

国民主権を発揮するためには我が国の「ねじれ」の構造を解消する必要があります。日本の国会には民主主義を抑圧する仕組みが内包されてきたからです。ところが有識者と呼ばれる人たちは「与野党がよく話し合え。それが民主主義だ」と言います。お互いが妥協をすれば政治は進むと言う訳です。勿論、妥協できればそれに越した事はありません。

しかしマニフェスト選挙は与野党が政策を掲げて戦う選挙です。その政策を支持した国民がそれぞれの後ろに付いています。特に政権を獲得した与党に対しては掲げた政策を実現して欲しいという強い期待があります。一方で参議院の過半数を握る野党も政権交代のチャンスを迎えている訳ですから支持者は譲歩を許しません。そうした中で「よく話し合え」と言っても、問題の解決にはならないのです。そうした発言はむしろ問題の本質から目を逸らさせるものです。

我が国の有識者には「民主主義音痴」とでも言うべき考え方が根強くあります。その典型が戦後の参議院で力を発揮した「緑風会」への高い評価です。そもそも「緑風会」は戦前の貴族院議員を中心に組織され、政党政治を否定するところから始まった会派です。衆議院の決定を否定するところに存在意義がありました。

国民の多数が選び出した政党の党首が最高権力者となり、その政策を実現しようと言う時に反対に回るわけですから、国民主権の観点から見れば反対勢力です。ところが我が国には「緑風会」のあり方を評価する向きが多いのです。今でも参議院の民主党は「民主党・新緑風会」という名称の会派を名乗っています。「緑風会」を民主主義に合致した勢力だと思っているのでしょう。不思議な話です。

 ともかく我が国の政治史を見てくれば、「ねじれ」の構造を直す事をやらないと、いつまでも国民が実現して貰いたい政策が現実になりません。そこで「ねじれ」を変える方策を考えていこうと思いますが、その前にもう一つ、我が国には国民主権を阻む壁があるので、それを述べる事にします。それは選挙制度です。

我が国の選挙は、候補者の名前を書いたポスターと、候補者の名前を連呼する宣伝カーが活躍する選挙です。要するに個人を売り込む選挙です。従って候補者は地縁、血縁のある選挙区から立候補するのが通例です。これはアメリカの選挙と似ています。アメリカは地域の代表を選ぶ選挙で、候補者は地域の代表にふさわしい人間である事を売り込みます。

ところが最近の日本の選挙はマニフェスト選挙が主流です。政党の政策を選ぶ選挙になりました。マニフェスト選挙の本場はイギリスです。イギリスでは候補者を売り込む選挙をやりません。売り込むのはマニフェスト、すなわち政党の政策です。「候補者は豚でも良い」と言われるほど候補者の資質は問題になりません。候補者はポスターも作らず、個人事務所も持たず、宣伝カーで名前を連呼することもなく、ひたすら政党のパンフレットを配って歩きながら党の政策を説明します。

従ってイギリスの選挙には金がかかりません。地縁、血縁のない落下傘候補が党から指名されて立候補します。アメリカは個人を売り込む選挙ですから金がかかります。金を多く集めた候補が選挙では有利です。金を集める能力は政治家にとって大事な能力の一つと考えられます。そしてアメリカの選挙はマニフェスト選挙ではありません。

日本の選挙はアメリカ型に近いのですが、一方でマニフェスト選挙を目指しています。この混乱が国民主権の発揮を妨げていると私は思います。国民は個人を選ぶのか政党の政策を選ぶのか人によってバラバラです。その結果、個人を選ぶ選挙のメリットも、マニフェスト選挙のメリットも実現されていないと私には思えます。

また世界の選挙で戸別訪問を禁止している国を私は知りません。選挙はどこでも戸別訪問が基本です。マニフェストを説明して歩くのに戸別訪問が出来ないというのも不思議です。永田町には「法律を犯して初めて法律を作る議員になれる」と言うブラックジョークがありますが、公職選挙法を守っていたら当選できないと言う意味です。警察が誰でも摘発できるほど選挙には制約が多いのです。

日本の公職選挙法はガラパゴスと言って良いほど選挙制度としては珍種です。その公職選挙法を変えるのに政治家は声を挙げにくいものです。特に「制約をなくせ」と言えば痛くもない腹を探られます。国民の側から声を挙げて改正されるのが望ましいと私は思います。日本がマニフェスト選挙を続けるなら、イギリスの選挙制度を参考に変更するのが良いでしょう。これが国民が主権を実現するための第一歩です。(続く)