ニッポン維新(99)国民主権を阻む壁―14

私が常々不思議に思ってきた事は、憲法で衆議院の優位性が認められながら、現実には参議院の多数を支配しないと政権運営が思うようにならない事です。その現実は憲法の規定とは裏腹に「衆議院よりも参議院の方が強い」事を示しています。しかし誰も「参議院が強すぎる」とは言いません。憲法が衆議院の優位性を謳っている「建前」に縛られているからです。日本国民は「建前」によって政治の現実を見る力をなくしていると私は思います。

国民にとって最も重要なのは自分たちが収めた税金がどう使われるかという問題です。国民に利益をもたらす税金の使われ方を国会で議論して貰う必要があります。それには現在生きている国民だけではなく、将来の国民の利益も考えて貰わなければなりません。予算の決定は国会にとって極めて重要な仕事なのです。

憲法では予算案は衆議院の議決が優先され、参議院が否決しても成立する事になっています。これが参議院よりも衆議院が強い証拠だとされています。しかしこの数年の「ねじれ」で分かったように、予算が通っても予算関連法案が通らないと予算の執行は出来ません。そして予算関連法案に衆議院の優位性はありません。

例えばガソリンの暫定税率を継続させる法案が否決されれば、予算案で見込んでいた税収がなくなり、予算に欠陥が生じます。福田康夫政権は参議院で否決された法案を衆議院の再議決によって成立させ、欠陥をどうにか食い止めました。しかしそれが出来たのは与党が衆議院で三分の二を越える勢力を持っていたためです。三分の二以下ならば万事休すで予算は執行出来ませんでした。衆議院の過半数の賛成で選出された総理大臣が、過半数の支持だけでは自前の予算を組む事が出来ないのです。

日本国憲法を作る時、二院制に固執する日本に対してGHQが言った言葉を思い出します。「日本は連邦制国家でもないのにどうして二院制を採用するのか。二院制を採用してきたイギリスはそのために長い間政治が混乱した。日本はそれを繰り返すのか」。当時のGHQはそう言って一院制を薦めましたが、日本の戦後政治は言われた通りに混乱してきたと思います。

「議会制度の母」と言われ、七百年の歴史を持つと言われるイギリス議会は、世襲の貴族院と国民から選ばれた庶民院の対立の歴史でした。イギリス議会が民主主義を強めて貴族院の抵抗を食い止める事が出来たのはほんの百年前の事です。それまでは国民の選挙で選ばれた庶民院が賛成した法案をそのまま成立させる事は出来ませんでした。

イギリス議会では予算を含む財政法案(マネー・ビル)について、1670年代から庶民院の優位性が認められてきました。やはり国民の税金の使い道については国民から選ばれた議員の権限に委ねるべきだからです。しかし他の重要法案は貴族院の抵抗によってしばしば否決され、不成立に終わってきました。

第一次世界大戦直前の1909年に自由党内閣の大蔵大臣ロイド・ジョージが提出した予算案は、ドイツに対抗するための軍事費と社会保障費を捻出するために富裕層への課税を強化するものでした。これに反発した貴族院は「これは通常の予算案ではなく、一種の社会革命だ」として予算案を否決し、貴族院と庶民院の対立が決定的になりました。

庶民院は貴族院の否決を違憲であると決議し、政府は庶民院を解散して民意を問うことにします。こうして行われた1910年1月の総選挙は政府与党の勝利となり、貴族院は国民の民意に負けてやむをえず予算案を可決しました。この時を逃さず政府は貴族院の改革問題を提起しました。12月に再び総選挙を行って勝利した政府は、貴族院の権限削減を盛り込んだ国会法案を提出したのです。両院は正面衝突の形になりました。

この政治的混乱は当時即位したばかりの王ジョージ5世が庶民院の側に立った事で貴族院が折れ、1911年8月に貴族院の権限を削減する国会法が成立しました。これによって貴族院には財政法案に対する否決や修正の権限はなく、庶民院で可決されれば法案は1ヶ月以内に成立する事になりました。その他の公的法案(パブリック・ビル)も庶民院を通過すれば貴族院は2年間しか停止する事が出来なくなりました(1949年からはさらに1年間に短縮)。

こうしてイギリスの二院制は、貴族院に法案のチェック機能は認めるものの、決定権は国民に選ばれた庶民院に委ねられる事になりました。従ってイギリスの二院制は事実上の一院制と見られなくもありません。しかし日本国憲法を作る時に議員を選挙で選ぶ事を条件に参議院を認め、しかも参議院が否決した法案の再議決には三分の二以上の賛成が必要と定めた事が、百年以上前のイギリス議会と似た混乱をもたらす事になったのです。(続く)