ニッポン維新(102)改革のためにー2

まず日本という国の位置づけから再確認します。日本は第二次世界大戦の敗戦国で、戦後は従属的地位に置かれてきた国です。それが前提です。戦勝国は1945年にヤルタとポツダムで戦後処理を話し合い、国際連合(国連)を作った米、英、ソの三国です。

それにアメリカが中国を加え、イギリスがフランスを参加させて、米、英、仏、ソ、中の5カ国が国連を事実上リードする安全保障委員会の常任理事国を構成しました。この5カ国が戦後世界を支配する側です。なぜなら1968年に作られた核拡散防止条約(NPT)は、この5カ国だけに核の保有を認めているからです。

そのことに反発してインドとパキスタンは核を持ちました。それとイスラエルはいずれもNPTに加盟しておりません。北朝鮮は最近NPTを脱退しました。NPTができる時に日本は「永遠に従属国の地位から抜けられなくなる」と考え、ドイツに働きかけて核を持とうとします。しかし戦勝国アメリカはこれを認めませんでした。日本はアメリカの核の傘の下に置かれることになりました。

この基本構造の中で覇権争いが行われています。まずアメリカとソ連が争いました。東西冷戦の始まりです。第二次世界大戦はファシズムと自由主義との戦いですが、米英はファシズムと戦うためにソ連共産主義と手を組みました。

ところがアメリカはソ連共産主義と戦うために今度は日本とドイツのファシズム勢力と手を組むのです。ナチと日本軍が持っていたソ連情報を必要としたからです。アメリカは密かにドイツと日本の戦争協力勢力を復活させます。

1976年に起きたロッキード事件は、世界の「反共人脈」とアメリカの軍需産業との関係を暴露しました。日本では戦犯だった児玉誉士夫がロッキード社の秘密代理人であることが明らかになりました。日本国民はロッキード事件を「田中角栄の犯罪」と思い込まされていますが、あの事件の本質はベトナム戦争に敗れたアメリカが、軍需産業と反共人脈との癒着を断ち切るために起こした事件です。そして「反共人脈」と戦前のファシズム勢力は重なっているのです。

アメリカはソ連に対抗するため、外交官ジョージ・ケナンの「ソ連封じ込め」戦略を採用しました。それによってアメリカは西側陣営に経済援助を行い、共産主義イデオロギーの浸透を食い止めようとしました。ヨーロッパでは西ドイツが、アジアでは日本が「反共の防波堤」と位置づけられます。

戦争に負けたドイツと日本が戦後いち早く経済復興を成し遂げ、アメリカに次ぐ経済大国にのし上がったのは、国民が勤勉だったからではなく、何よりもアメリカの「ソ連封じ込め」戦略のおかげだったのです。

1950年、朝鮮戦争が始まり日本は攻撃の発進基地となります。また兵器の修理、補給のために日本の工業力を復興する必要が生まれました。これが戦後日本の「国のかたち」を決定します。日本は農業国ではなく、工業国として復興されることになります。

さらに1ドル360円の為替レートは輸出に有利でした。工業製品の輸出で国を成り立たせる貿易立国路線が敷かれました。輸出主導型の経済構造は資源がないためでもありますが、戦後は冷戦構造に後押しされたのです。

一方でアメリカは食糧難の日本に余剰農産物を売り込み、日本をアメリカ農業の輸出市場にしようと考えました。子供にアメリカの味を覚えさせれば一生アメリカ製品を食べ続ける。それがアメリカの戦略でした。戦後、日本の学校給食がパンと脱脂粉乳になったのはそのためです。

「金の卵」と呼ばれる若者達が農村から都会に集団就職で出てきたように、農村が工場労働者の供給源となりました。日本の農業は保護を必要とするレベルに留め置かれ、それが農村を自民党の票田にするのです。自民党は次々に農村保護の政策を打ち出し、それをエサに自民党国会議員は票を獲得しました。その保護策の中に鉄道や道路、ダム、空港などの公共事業政策がありました。農業を振興するよりも公共事業の予算を付けることが農政の基本になっていったのです。(続く)