ニッポン維新(103)改革のためにー3

戦後日本を占領支配したGHQは、日本の軍国主義と封建制を破壊し「民主化」を進めようとしました。戦争を遂行した軍人や政治家を東京裁判で裁き、神格化されていた天皇に人間宣言をさせ、20歳以上の全ての男女に選挙権を与え、戦前の日本経済を支えた財閥と地主階級を解体しました。
 
さらに「国民主権」、「基本的人権の尊重」、「平和主義」を原理とする日本国憲法を、GHQの案を基に作らせました。しかし新憲法にはGHQの考えとは異なり、戦前の貴族院の思想が込められ、それが「強すぎる参議院」を生みだして戦後政治を混乱させてきたことはこれまで説明した通りです。いかに新憲法で「国民主権」が謳われても、政治が力を持てなければ「国民主権」は発揮しようがありません。

またGHQは戦前重要な地位にあった人物を公職追放しますが、政治家には厳しかった処分が、官僚にはそれほどでもありませんでした。追放された政治家の中に戦争反対を唱えていた石橋湛山まで含まれていますから、政治家は軒並み追放されたと言っても過言ではありません。しかし官僚に厳しくなかったのはなぜなのでしょうか。

GHQの占領統治は間接統治で官僚と官僚機構をそのまま利用する必要がありました。またアメリカは民主主義国家ですから官僚は政治家の命令の下に働きます。従って国家の政策の責任は全て政治家にあると考えたと思います。しかし戦前の日本は、国民の選挙で選ばれた政治家よりも天皇の僕である官僚の方に力がありました。その事情をアメリカは理解していなかったのだと思います。

従って「民主化」されたと言っても官僚の力が衰えることはありませんでした。言い換えれば戦前の構造の表層は変わっても底流は変わりませんでした。従って戦時中に「国家総動員態勢」を作った「革新官僚」の政策は戦後に引き継がれます。企業は証券市場で自己資金を集める「直接金融」より、銀行からの融資で事業を行う「間接金融」が主流のままで、その銀行を大蔵省がコントロールする体制は維持されます。国家が銀行を監督し、銀行が民間企業を監督する「計画経済」の構造は生き残ったのです。

戦前の官僚が民間企業をコントロールするため業界毎に作らせた「統制会」は名前を変えました。農協や経団連などは「統制会」の戦後版の代表例です。今でも民間企業は業界毎に組織を作り官僚の指導を仰ぎ、戦争遂行を理由に始められた給与からの税金の天引きや、国が地方を補助金で縛るやり方も変わることはありませんでした。

「革新官僚」として統制経済を主導した岸信介や椎名悦三郎は後に自民党の中心的存在となり、同じ「革新官僚」出身の和田博雄や勝間田清一は社会党の理論的支柱になりました。自民党と社会党を代表する政治家のルーツは実は同じなのです。つまり戦後日本の「民主化」は民氏主義の衣をまとった官僚支配の再編成でした。

戦争を遂行した者の一部は東京裁判で裁かれて処刑され、別の一部は冷戦の始まりによって密かに復権が図られました。国民主権を謳った新憲法で政治は力を発揮できず、財閥や地主階級が解体された後には官僚が司令塔となるピラミッド型の経済体制が生まれました。ピラミッドの支配構造は次第に既得権益化していきます。

GHQが占領していた期間は国会を超える絶対権力として政治に介入し、重要法案を成立させることが出来ました。しかし日本が独立した後は「強すぎる参議院」によって政治の混乱が避けられなくなります。その「ねじれ」を解消したのは政界再編でした。1955年の「保守合同」と「左右社会党の合体」により、自民党と社会党による二大政党時代が幕を開けました。

しかし東西冷戦の国際情勢の中で西側陣営の一員である日本が外交安保政策を変更することは不可能でした。何よりもアメリカがそれを許す筈はありません。野党の社会党は政権を狙わない政党に変化します。過半数の候補者を選挙に擁立せず、従って政権は狙わず、目標を三分の一の議席の獲得に置きました。「三分の一政党」と呼ばれた社会党は、政権交代ではなく「三分の一」で実現できる「憲法改正阻止」が目的となりました。

「万年与党」の自民党と「万年野党」の社会党の誕生によって「ねじれ」は解消され、政治の安定は図られましたが、しかし国民は選挙で権力を交代させることが出来ません。日本の民主化を目指した新憲法は、結果として「国民主権」を発揮できなくする政治構造を作り出したのです。(続く)