ニッポン維新(104)改革のためにー4

1ドル360円の為替レートで工業製品を輸出する日本の貿易立国路線は、「55年体制」が生みだした政治の安定と、戦前の「国家総動員態勢」を引き継ぐ官僚主導体制と、世界の冷戦構造によって見事な経済成長をもたらしました。

 しかしこれを裏側から見れば、政治の安定は政権交代をさせないいわば「国民主権」を奪う仕組みであり、官僚主導による「統制経済」は新規参入を排除する既得権益の世界を生みだし、アメリカに守られた日本は、朝鮮戦争で経済の基礎を築き、ベトナム戦争で経済を成長させるというようにアメリカの戦争で潤う国になりました。

日本の経済成長はアメリカにとっても利益でした。在日米軍基地はアメリカが史上初めて海外に持った軍事基地で、日本国民に反発されないことがアメリカには何よりも重要でした。国民的盛り上がりを見せた60年安保闘争はそれを危うくする恐れを抱かせます。アメリカには日本経済を成長させて日本国民の不満を抑える必要がありました。

しかしそれは冷戦が続いていた時代の話です。ベトナム戦争がアメリカの負担になるにつれ、そうした事情は変化していきました。ベトナム戦争の終結を政権の課題としたニクソン大統領は、それまでのアメリカの戦略を一変させます。まず南ベトナム解放民族戦線の後ろ盾となっていた中国と電撃的に和解し、それまでの冷戦構造を転換させました。

次にベトナム戦争で生じた財政負担を減らすため、戦後の国際通貨体制の基軸であった金とドルとの交換を一方的に停止し、「強いドル」政策をやめて通貨安政策を取り始めました。これは日本の輸出主導経済に大打撃を与えます。日本の高度経済成長を支えてきた要因が消えたことで、日本はそれまでの生き方を真剣に考え直すべき時でした。

しかし戦後復興の成功体験に酔いしれていた日本は舵を切り替える決断が出来ませんでした。沖縄返還交渉の「密使」であった国際政治学者の故若泉敬氏は警鐘を鳴らした数少ない一人です。彼は「もはや日米安保体制を見直すべきである。安保条約は日米友好協力条約にすべきだ」と説きましたが、誰も耳を傾けませんでした。

それからの日米は貿易戦争の時代に入ります。安全保障上の「防波堤」であった日本が経済上アメリカの「敵国」となったのです。沖縄返還交渉と引き替えにアメリカは日本に繊維製品の輸出規制を要求し、明治以来日本の国家産業であった繊維産業は廃業に追い込まれました。それを皮切りに自動車、電機製品、半導体などの分野で次々に摩擦が起こり、米ソの冷戦よりも日米の経済を巡る覇権争いが世界の注目を集めるようになりました。

1985年、日米経済関係が逆転します。第一次大戦以降世界一の金貸し国であったアメリカが世界一の借金国となり、日本が世界一の金貸し国になったのです。アメリカにとって日本は脅威の国になりました。「ソ連封じ込め」に代わる「日本経済封じ込め」をアメリカは考え始めます。プラザ合意で円高誘導を図り日本経済を追いつめました。円高の打撃を避けるために日本は低金利政策を採り、それがバブル経済を生み出します。土地と株の投機に走った金融界に闇の勢力が入り込み、国富は地下経済に吸い取られていきました。

一方でバブル経済は明治以来の目標であった「欧米に追いつき追い越せ」を達成したという錯覚を生み出します。長期政権の自民党と官僚機構に慢心が生まれました。対立軸のない自社馴れ合い政治は、世界情勢の変化や国家の構造問題に目を向けず、ロッキード事件以降最大の政治課題となった「政治とカネ」の問題でひたすら対立を繰り返しました。

一方で高度経済成長の司令塔を自負してきた官僚機構は、民間セクターの繁栄は自分たちの努力の成果と考えます。それに見合う報酬を得てもおかしくないと考えるようになり、民間セクターに天下りしたり、採算のとれない分野に税金を投入して官僚ビジネスを始めました。天下りの斡旋や官僚ビジネスを作ることが事務次官の仕事になりました。

農業を保護し、農村を自民党の票田にするために採られた公共事業政策は、不必要な道路、ダム、空港などを造り、そこに官僚ビジネスが絡みます。不要な財政支出が赤字を膨らませる一方で、かつて世界一の長寿国ともてはやされた日本は、一転して世界最速の高齢化社会を迎えることがはっきりしてきました。財政負担はいよいよ増すことになります。人類が歴史上経験したことのない高齢化社会に日本国家がどう挑むのかを世界が注目するようになりました。日本の国家構造を一新しなければならないことは誰の目にも明らかでした。(続く)