ニッポン維新(116)民主主義という幻影―2

6月1日夕刻、自民党を中心とする野党勢力は菅内閣に対する不信任案を衆議院に提出しました。その前に行なわれた党首討論の冒頭で、自民党の谷垣総裁は「信なくば立たず」と切り出し、菅総理が政治家にとって最も大事な「信頼」を失っている事を理由に退陣を迫りました。

谷垣総裁の指摘に異議を差し挟む気はありませんが、「信なくば立たず」という言葉は日本の政治家が良く使う言葉です。『論語』にある孔子の言葉で、政治家は人民から信頼される事が何よりも大事という意味です。スキャンダルを追及された議員などが議員辞職を求められる時によく使われました。「信なくば立たずだから、あなたは議員をお辞めなさい」という具合です。この「信なくば立たず」にほとんどの日本人は共鳴し、「民主主義政治において最も大事なのは大衆の支持だ」と考えているように思えます。しかし私にはこれも「政局よりも政策」と同様に民主主義の本質から外れた言葉に思えてなりません。

まず『論語』の孔子の言葉から吟味していきます。弟子の子貢(しこう)が孔子に「政治とは何か」を問います。孔子は「食を足し兵を足し、民をして之を信ぜしむ」と答えます。つまり、人民を食べさせ、軍備を整え、人民に信頼させることだと言うのです。今風に言えば「経済と安全保障と支持率が大事」ということでしょうか。

すると子貢が、「その三つのうちどれかを諦めなければならないとすればどれですか」と聞きます。孔子は「兵を去らん」と答えます。まずは安全保障を諦めると言うのです。さらに子貢が「残った二つのうち諦めるとすればどちらですか」と聞きます。そこで孔子が「食を去らん。古(いにしえ)より皆死あり。民は信なくば立たず」と言ったのです。

昔から人は皆死ぬのだから食糧(経済)を諦める。しかし人々から支持されなくなったら政治はやってられないと言うのです。これが「信なくば立たず」です。しかし人民を食べさせる事の出来ない政治が果たして人民から信頼されるでしょうか。飢饉が訪れれば生き残るために人は人を殺すと言われます。そんな世界に信頼関係など成り立つのでしょうか。

慶応大学名誉教授の村松瑛氏は「儒教の毒」(PHP文庫)で、「孔子が儒教を絶対化してしまい、それが万能の力を持つかのごとく説いたので、儒教を政治に持ち込むとはなはだ現実離れしたことになる」と書いていますが、はっきり言って孔子は「政治音痴」だと思います。ところが日本の政治家は『論語』の教えと民主主義とを合体して、現実離れした理想論を振りまき、それを国民も不思議に思っていないのです。

メディアを操作して国民的人気を一身に集めた小泉総理の頃から、政治家はみな国民の人気を得る事が第一と考えるようになりました。テレビに出演して芸能人まがいのパフォーマンスを行い、常に世論の支持率を気にするようになりました。「信なくば立たず」に洗脳された政治家が増えてきたのです。

ところが私が見てきたアメリカやイギリスの政治はそれとは真逆です。「食を足す」ことが第一であり、「信なくば立たず」で大衆に迎合する政治家を厳しく戒めています。「ポピュリズム政治」は「民主主義の敵」と考えているのです。国会審議のテレビ公開を巡って私が経験した事は彼らの民主主義に対する考え方を象徴しています。民主主義に対する彼我の違いを考えてみてください。(続く)