ニッポン維新(118)民主主義という幻影―4

NHKの「国会中継」に弊害があると気づいたのは私が政治記者をしていた80年代半ばです。「ハマコー」こと浜田幸一衆議院議員が予算委員長に就任し、予算委員会を取り仕切った時でした。

予算委員会のテレビ中継初日、浜田委員長は野党議員が発言をしている最中に突然「休憩」を宣言しました。怒る野党議員に対して浜田氏は「NHKが昼のニュースのため国会中継を打ち切った。だからこちらも審議を打ち切った」と平然と答えました。国会がテレビの都合に合わせるかのような発言でした。

翌日、浜田委員長は共産党議員が質問している最中にその発言をさえぎり、「宮本顕治共産党委員長は殺人者である」というメモを読み上げました。それはNHKの中継が終了する間際の出来事で、自分の発言は放送に入るが、相手の反論は放送に入らないように計算されていました。この一件で浜田氏は予算委員長を辞任します。しかし彼は「国会中継」を政治宣伝の場として思い通りに利用したのです。

これは「ハマコー」氏ならではの事例ですが、しかしこの件で私は「国会中継」は議員にとって自己宣伝の場であるという事実に気づきました。「ハマコー」氏はそれを乱暴な形で見せつけましたが、多かれ少なかれ議員はみなそう考えているのです。テレビが入る事によって国会は普段とは異なる「よそゆき」の場になっているのでした。

「国会中継」の放送には発言する議員の後ろに並んで座る議員の姿も映ります。これも議員たちの関心事です。何とかそこに自分の姿を映したいと議員は思っているのです。「国会中継」の映像の枠からはみ出た議員が「カメラをもっと引けば俺の姿が映る」とNHKに圧力をかけたという話も聞きました。

予算委員会は予算の審議をする委員会です。ところが予算の議論をテレビで見る事はまずありません。予算の審議には予算を編成した担当大臣、すなわち財務大臣が出席すれば事足りる筈ですが、テレビ中継がある時には総理大臣以下全大臣の出席が強制されます。質問内容も予算に限らず何でも良いと言われています。従って質問するのは野党の幹部で、答弁するのは総理大臣が中心となります。

そこで野党が最も得点を稼げると思うのが「政治とカネ」のスキャンダル追及でした。特に「55年体制」の時代には、野党に「爆弾男」と呼ばれるスキャンダル追及専門の議員がいて、政府が答弁に窮すると、それを理由に審議を止めて時間稼ぎをします。時間稼ぎで年度末までに予算が成立しなければ政府は総辞職か解散に追い込まれます。

つまり日本では予算案の中身を吟味するよりも、スキャンダル追及で審議を止め、時間稼ぎをして政府を追い込み、譲歩を迫るやり方が常態化していました。審議が止まると与野党の国対(国会対策委員会)が登場します。表では与野党の国対が断続的に会談して打開の道を探る「ふり」をします。しかし裏側で誰にも知られないように与野党1対1の秘密交渉が始まるのです。国会議員にもメディアにも秘密の交渉です。

そこでは予算を成立させる見返りに様々な取引が行なわれました。すべての法案の帰趨もそこで決まりました。委員会で議論をする前から廃案になる法案、継続になる法案が仕分けされるのです。そして労働組合の賃上げやストライキの処分問題までもが取引材料になりました。時には政府から野党に金も流れました。例の官房機密費が使われるのです。

これが「55年体制」時代の知られざる国会の姿です。しかし冷戦の崩壊と共に「55年体制」にも終焉の時が訪れました。与野党の裏取引も限界に達していました。その頃、国会の裏舞台を知る議員の中から「政権交代可能な二大政党制を作る必要がある」との声が上がりました。裏舞台を知るからこそ政治構造を変えなければならないと痛切に感じていたのです。しかしそれまでは民主主義とは程遠い裏取引が日本政治そのものでした。

そうした政治構造を支える柱の一つがテレビの「国会中継」です。予算委員会しか中継しないテレビ、テレビを意識して大衆に迎合しようとする議員、予算の議論よりもスキャンダル追及が効果的だと考える野党、スキャンダル追及であれば予算審議を止めても怒らない国民。それらの延長上にその政治構造は生まれたのです。

先進民主主義国で「政治とカネ」の問題を延々議論する議会を私は知りません。政治家のカネの問題で違法性があれば、それは司法が扱う問題で、立法府が関与する問題ではありません。ところがわが国の国会では予算の議論より「政治とカネ」の議論が優勢になります。それを生み出したのはテレビの「国会中継」であると私は思います。そしてそれが先進民主主義国と日本との「民主主義の違い」になっていると思うのです。(続く)