ニッポン維新(120)民主主義という幻影―6

アメリカの議会中継専門テレビ局C-SPAN(シー・スパン)の放送哲学は極めてユニークです。第一に「視聴率を追求するところからテレビの堕落が始まる」と言い、視聴率追求の姿勢を徹底的に排除します。「大勢の人に見てもらう必要はない。一人でも見たい人間がいれば我々は存在する価値がある」とC-SPANは言い切ります。第二に「我々はジャーナリズムではない。もうひとつのジャーナリズムである」と宣言します。ジャーナリズムの基本は「編集」にあります。物事を人に伝える場合、すべてを逐一伝える事はできません。重要と思うポイントを分かり易く伝えるのが仕事です。その際どの視点から伝えるか、どこに焦点を当てるかはジャーナリズムの自由です。いかなる権力からも強制されません。

従ってジャーナリストの能力は「編集」の能力と言えます。ところがC-SPANは「編集を放棄する」と宣言するのです。議会審議は冒頭から終了まであるがままに放送する。「編集をしないから自分たちはジャーナリズムではない」と言う訳です。

しかし何を放送するかは自分たちで決める、放送内容は誰からも強制されないとC-SPANは宣言します。何を放送するかを決める事を「編成」と言いますが、それは放棄しないのです。つまりC-SPANは「編集」はしないが「編成」はするのです。

「編成」もジャーナリズムにとっては欠かせません。議会や政治家の都合で放送内容を決められてしまえばジャーナリズムではありません。「議会が国民に見せるのではない。国民が議会を監視するのだ」とC-SPANは言います。だから「もう一つのジャーナリズム」なのです。

下院本会議場に議会がカメラを取り付け、その映像をテレビ各社が提供を受けるところからアメリカ議会のテレビ公開は始まりました。地上波テレビは編集をして主にニュースに使います。しかしC-SPANは編集せずに初めから終わりまであるがままに放送しました。

放送が始まってみると、C-SPANのやり方ならば「ポピュリズム」の弊害は起こらないと政治家たちは考えるようになりました。それまで新聞やテレビが取り上げなかった無名の議員を国民はC-SPANを通して知るようになり、無名の議員の実力を国民が認めるようになったからです。

下院は本会議だけではなく委員会の撮影もC-SPANに認めるようになりました。C-SPANは独自にカメラを出して委員会審議もあるがままに放送します。ただしどの委員会を撮影するかは誰からも指図を受けません。前日の編成会議で決める事にしています。早くから決めると議員たちに「馴れ合い」の余裕を与えるから前日に決めるのです。この前日の編成会議が「もう一つのジャーナリズム」としてのC-SPANの生命線です。

これに対してNHKは誰かが決めた委員会を中継しています。NHKに「なぜ予算委員会と本会議しか放送しないのか」と問うと「慣例です」としか答えません。NHKが「国会中継」を独自に「編成」した形跡はありません。恐らくこの国の支配構造にとって都合の良い「国会中継」が誰かの手で決められ、それが続いてきたのです。

つまり日本の「国会中継」は国民が国会を監視する仕組みではなく、政治の側が国民に国会を見せる仕組みです。しかも「国会中継」のお陰で政治家は国民に迎合する「ポピュリズム」の政治家となりました。そして国民は与野党のパフォーマンスを民主主義の政治だと錯覚させられるようになりました。

アメリカではC-SPANの放送が始まるとパフォーマンスをする議員が落選するようになりました。国民はパフォーマンスの上手い議員より地味でも実力のある議員を支持するようになったのです。そうした積み重ねが上院にテレビでの公開を決断させる事になります。そしてC-SPANは「アメリカ民主主義にとってなくてはならない存在」とまで言われるようになりました。

このアメリカの議会中継を海の向こうから見ていたのがイギリス議会でした。イギリスではテレビが一般家庭に普及した60年代から議会審議のテレビ公開を求める動きがありました。しかし法案は提出されるたびに否決されました。理由は「ポピュリズム」に対する警戒です。しかしアメリカに「ポピュリズム」の弊害を生み出さないテレビが登場しました。1988年、C-SPANの創立者ブライアン・ラムがイギリス議会に呼ばれ、議会で自らのテレビ哲学を証言しました。(続く)