ニッポン維新(128)民主主義という幻影―14

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確かに、複数の政党があり、国民から選ばれた議員が議会で議論をし、多数決で物事を決めていても、政権交代がなければ独裁体制と変わりません。それでは日本に政権交代が起きなかったのは何故でしょうか。戦後作り出された政治構造にその原因があります。

前にも説明しましたが、戦後民主主義の象徴である日本国憲法は「強い参議院」を作りました。それは憲法を作成したGHQの考えではなく、日本側で憲法担当大臣を務めた松本丞冶氏が強く主張したためです。松本氏は戦前の貴族院議員で、国民から選ばれた議員や政党には国政を任せてはならないという考えの持ち主でした。戦前は国民から選ばれた衆議院の決定を世襲の貴族院がすべてチェックしていたからです。

松本氏の主張に屈したGHQは世襲にしない事を条件に参議院を認め、貴族院に代わって参議院が衆議院をチェックする事になりました。ところが参議院が否決した法案は衆議院で三分の二を超える賛成がなければ成立させる事が出来ないと憲法に盛り込まれました。参議院は法案の帰趨に極めて強い権限を持つ事になりました。

貴族院の伝統を受け継ぐ参議院は、「緑風会」に代表されるように政党政治を否定し、無所属である事を是としました。そして政府に対して徹底的に抵抗の姿勢を示します。片山、芦田、吉田と続く戦後政権はいずれもこの「ねじれ」に苦しみ、重要法案を国会で成立させる事が出来ませんでした。

ただ吉田政権だけはGHQの後ろ盾を得て、国会で否決された法案をGHQの命令で成立させます。GHQの命令を「ポツダム政令」と言いますが、吉田総理は「ポツダム政令」によって長期政権を維持する事が出来たのです。しかし日本が独立すれば「ポツダム政令」もなくなります。独立後の日本は「ねじれ」による政治の停滞が懸念されました。

独立から3年後の1955年、保守合同と左右社会党の合体によって自民党と社会党の二大政党が誕生します。保守合同によって自民党はようやく衆参いずれも過半数を越え、初めて「ねじれ」が解消されました。それが自民党の長期政権を可能にしますが、それとは別にもう一つ重要な要因があります。それは社会党が政権交代を目指さない野党に変身したという事実です。

政権交代を目指さない野党とは、選挙で過半数の候補者を擁立しない野党です。国民が候補者全員を当選させても過半数に届かず政権は奪えません。そのように野党第一党の社会党は選挙で過半数を越える候補者を擁立しない政党になりました。これが日本に政権交代が起きなかった最大の理由です。

自民党と社会党はいわば経営者と労働組合の関係になりました。労働組合が組合員の要求を掲げて経営側と対立しても経営権は奪わないように、社会党は国家の経営権は奪わずに、修正を求めるだけの政党になりました。企業内労働組合は労働条件で経営側と対立しても利益を上げる点では経営側に協力します。この与野党関係が日本の高度経済成長を支えました。

民主主義は独裁政治に比べて何を決めるにも時間がかかります。様々な階層の声を政治に反映させようとすれば困難が伴います。これを「民主主義のコスト」と言いますが、政権交代のない日本では与党と官僚機構が安定的な関係を築き、長期的見通しの下に経済政策を継続させる事が出来ました。いわば民主主義のコストを払わずに戦後の日本は官民が一体となり輸出主導の計画経済を推進したのです。

これを見ていたのが共産主義の中国でした。70年代の終わりから始まった改革開放政策は日本の高度成長をモデルにしたものです。一党独裁で輸出主導の経済政策を推進する。それが日本を真似た中国の方針でした。そして遂に中国はモデルとした日本を追い抜くほどの高度成長を成し遂げました。

ところが2年前、自民党政権が倒れて日本に初めて政権交代が実現しました。中国政府は大きな衝撃を受けたそうです。一党独裁のモデルとしてきた日本に政権交代が起きたからです。中国はアメリカからも民主主義を取り入れるよう圧力を受けています。中国共産党内部で民主主義を巡る議論が行なわれたそうです。複数政党制は無理にしても、共産党内部に選挙制度を取り入れる事は出来ないかが話し合われたと言います。しかし結論は「時期尚早」と言うものでした。(続く)