ニッポン維新(129)民主主義という幻影―15

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戦後日本経済の成長と崩壊とを描いた本に『円の支配者』(草思社)があります。著者はドイツ人エコノミストのリチャード・A・ヴェルナー氏で、野村総研の経済調査部や日本開発銀行の設備投資研究所に勤務した後、オックスフォード大学経済統計研究所の研究員として日本銀行金融研究所と大蔵省財政金融研究所で研究を重ねた人物です。

興味深いのは1920年代の日本が現在のアメリカそのものだという指摘です。株主が経営者よりも強く、短期的利益を求める傾向があり、経営者は社内からではなく外部から任命され、従業員の解雇が頻繁に行なわれ、貯蓄率は低く、消費がGDPの8割を占め、政府の経済界に対する規制は少なく、官僚が経済に影響力を行使する事もなかったと言うのです。

また労働組合は企業ごとではなく産業横断的に組織され、企業の株式は持合ではなく個人が大半を握り、企業利益の三分の二が配当に当てられて、配当収入で暮らす金持ちと庶民との所得格差は絶大でした。

ところが1929年に起きた大恐慌によってアメリカ的な経済構造は破綻します。倒産と失業が世界に波及すると世界各国は保護貿易に走りました。資源を持たない日本は決定的な危機に追い込まれます。世界貿易からはじき出される危険から逃れるためには自給自足の経済体制を作るしかないと軍部や官僚は考えました。

一方で大恐慌の影響を受けなかった共産主義のソ連は世界から羨望の目でみられていました。ソ連の計画経済に注目した軍部や官僚は、自由主義市場経済からの離脱と計画経済による重化学工業化を進める事にします。その試みが満州を舞台に始まりました。そして「準戦時経済体制」を作る権限が「革新官僚」と呼ばれる官僚たちに与えられ、1938年に国家総動員法を成立させます。

革新官僚は、株主の力を奪い経営者の力を強めれば経済は成長すると考えました。日本の官僚制度はプロシアの官僚制度を手本にし、プロシアの官僚制度はプロシアの軍隊にならっています。軍部は軍隊式指揮命令系統に民間企業の経営者を組み込もうとしました。1940年に発表された新労働体制で、企業は株主のものではなくそこで働くみんなのものだとされ、国民健康保険や年金保険などの福祉制度が作られました。

また株式市場を通じた資金調達をやめさせ、銀行融資による資金調達を進める事で「メインバンク制」を創出し、貯蓄奨励運動を行なって消費を抑制し、家計部門の富を企業に移すようにします。産業効率化のため企業の合併、集中を行なって数を減らす一方、大企業は生産の一部を下請けさせる方が効率的な事が分かり、下請け制度が作られました。こうして1937年から45年までの間に1920年代とはまるで異なる経済構造が日本に作られました。その最後の仕上げが政治の介入を排除する事です。ドイツのナチスに倣って政党は廃止され、すべての政治家が大政翼賛会に組み込まれました。

戦後日本の政治、経済、社会システムは、実は1937年から45年までに作られた構造そのものです。占領軍の「民主化政策」とは裏腹に、準戦時体制は戦後も続きました。軍需省が通産省と経済企画庁になり、官僚が民間企業を管理するために作った「統制会」は業界団体として再登場しました。中央経済統制会は経団連に、農業統制会が農協に、自動車統制会が自動車工業会といった具合です。

軍部と内務省が解体されたためにライバルがいなくなり、準戦時経済体制を作った経済官僚たちは一層強力になりました。同じ敗戦国でもドイツと日本に対するアメリカの統治姿勢は異なり、直接統治のドイツに対して日本は官僚を手足に使う間接統治でした。公職追放も政治家には厳しく官僚には緩やかでした。

戦前「革新官僚」であった岸信介や椎名悦三郎は自民党の政治家になって高度経済成長の基礎を作り、和田博雄や勝間田清一は社会党の理論的支柱になります。「55年体制」を構成した自民党と社会党の中心に戦前の「革新官僚」がいた事は象徴的です。

準戦時体制の経済構造を作る仕上げが大政翼賛会であったように、戦後も政権交代のない政治体制を作る必要がありました。複数政党があっても政権交代しなければ良い訳です。自民党と社会党の「二大政党制」はそれを可能にしました。国民にはその真相が知らされなかっただけです。

ヴェルナー氏は日本は1945年には変わらなかったと言っています。1945年に天皇は軍服を脱いだだけで地位はそのままです。昭和天皇が即位した1925年から昭和が終る1989年までをひとつの時代と見た方が日本を理解できると言っています。準戦時経済体制は昭和を貫き、戦後民主主義は幻だったのです。(続く)