ニッポン維新(135)民主主義という幻影―21

江副浩正氏が政治家に未公開株をばら撒いたのは中曽根内閣時代です。従って疑惑の中心人物は中曽根康弘前総理でした。検察は中曽根氏を捜査の本命と位置づけていました。

江副浩正氏が2009年に出版した「リクルート事件・江副浩正の真実」(中央公論新社)によりますと、取調べで江副氏は検事からフランス映画の最後に出てくる「FIN」が検察の狙う政治家の頭文字だと言われます。つまり藤波孝生、池田克也、中曽根康弘の3氏を検察はターゲットにしていたのです。しかし中曽根氏は「秘書がやった」として一貫して疑惑を否定します。野党が要求する国会の証人喚問にも頑として応じませんでした。証人喚問には人権上の問題があるというのが理由です。ロッキード事件やグラマン事件では疑惑を持たれた民間人の証人喚問がテレビ中継され、緊張の余り手が震えて自分の名前を署名出来ない証人の姿が映し出されました。中曽根氏はその頃から証人喚問のテレビ中継に反対でした。

そこで竹下総理は議院証言法を改正し、証人喚問のテレビ撮影を禁止する事にします。その結果、証人喚問は静止画と音声のみの放送となりました。証人が委員会の部屋に入場して宣誓するまでは動画ですが、証人に対する質問が始まると映像は静止画となり、音声だけの中継になります。奇妙というかグロテスクな放送でした。

当時私はアメリカ議会の審議映像を日本に紹介する仕事をしていました。自民党の政治家からアメリカ議会のやり方を問われて調べると、アメリカでは公開か非公開かを決めるのは証人自身でした。証人が公開にメリットがあると思えば公開するし、非公開にしたいと考えれば非公開になるのです。

選挙の洗礼を受ける政治家は非公開にすると「後ろ暗さ」を指摘されて選挙にマイナスになります。しかし民間人は非公開を希望するケースが多いという事でした。証人喚問を国政調査権に基づく真相解明の手段と考えれば、非公開にする方が本当の事を喋り易いとも考えられなす。必ず公開しなければならないと考える必要はありません。証人の意思で決まる方が人権的配慮もなされていると思いました。

ところが日本では公開か非公開かを決めるのは証人ではなく国会です。リクルート事件では静止画と音声が証人の意思とは無関係にテレビ中継され、その放送に国民から批判が上がると、再び議院証言法が改正されて元に戻りました。しかし公開か非公開かを決めるのは相変わらず証人ではなく国会です。

日本人は「公開こそが民主主義」と考えがちです。国民には知る権利があるからです。しかし民主主義は何でも公開すれば良い訳ではありません。公開する事で国民全体の利益を損ねたり、基本的人権を犯す事は、避けなければなりません。

アメリカ議会ではしばしば「秘密会」が開かれます。公開すれば国益を損ねると考えられる議論は、守秘義務を負った与野党議員による「秘密会」で議論されます。ところが日本の国会で「秘密会が開かれた」と聞いた事はありません。「非公開は民主主義に反する」という思想が「秘密会」の開催を阻んでいるのかもしれません。

その結果、「秘密会」でなければ議論できない問題を国会は取り上げてこなかった可能性があります。重要な議論は官僚機構の中だけで議論され、国民の知らないところで結論が下され、国会では公開できる議論しかしてこなかった可能性があるのです。どちらが民主主義的でしょうか。こうしたところにアメリカ議会と日本の国会との民主主義に対する考え方の違いがあります。

そもそも国会の証人喚問は原則として全会一致の議決が必要です。多数決で決めれば、多数党が少数政党の議員を意図的に喚問し、偽証罪で告発する事が可能になるからです。国民から選ばれた政治家を多数党が意図的に潰す事は国民主権に反します。

また証人喚問では、本人や家族が刑事訴追を受ける恐れがある場合、証言を拒否する事が出来ます。刑事訴訟法の黙秘権と同じで、「何人も自らに不利益な供述を強要されない」のが民主主義です。民主主義は国家権力から国民を守る立場に立っています。

ところがわが国の国会では刑事事件の被疑者や被告が次々証人喚問されました。証人は証言を拒否しますから真相解明にはなりません。それでも証人喚問が行なわれてきたのは、政治的パフォーマンスとして効果があるからです。パフォーマンスが目的ですから「非公開」ではなく「公開」の必要があります。誤った民主主義の考えを基に国会は「パフォーマンスの場」となり、政治の混乱を招いてきたと私は思います。(続く)