ニッポン維新(143)民主主義という幻影―29

2009年3月に小沢民主党代表の公設第一秘書が逮捕された時、政界ではこれを「第二の昭電疑獄」とする見方が流れました。「昭電疑獄」は戦後初の疑獄事件で芦田政権を総辞職に追い込みますが、逮捕された政治家たちは10年後に無罪となりました。事件の背景にはアメリカ占領軍(GHQ)内部の暗闘があったと言われています。

民主憲法下での初の総選挙で第一党になったのは社会党でした。しかし社会党と第二党の自由党との議席差はわずか12で、社会党が単独で政権を担う事はできません。当時の日本には保守の自由党、中道勢力の民主党と国民協同党、そして社会主義を志向する社会党の三つの潮流があり、当初は4党連立内閣が模索されました。しかし自由党が社会党左派との提携を嫌ったため自由党を除く3党連立の片山政権が誕生します。

片山政権が直面したのは閣内対立でした。炭鉱業の国家管理を巡って民主党内に分裂が生まれ、衆議院も参議院も委員会が否決した法案を本会議で可決するという奇妙な形になります。法案が採決された後に民主党は分裂しました。一方、社会党も左右両派の対立が激しくなり、鉄道運賃と通信料金の値上げを財源に官僚に補給金を支給する補正予算案が左派の反対で潰れました。片山内閣はわずか8ヶ月で総辞職に追い込まれます。

次の総理を決める首班指名選挙では衆議院が民主党総裁の芦田均氏を選出、一方の参議院は自由党党首の吉田茂氏を選出して国会は紛糾しました。憲法の規定により衆議院の指名が優先されて芦田内閣が誕生しますが、この政権にはGHQ内部で民主化路線を主導していた民政局(GS)の強い支持がありました。民政局は吉田自由党を「保守反動」として嫌っていたと言われます。

ところが芦田内閣が誕生する以前から一部に「疑獄事件でこの政権は潰れる」との噂がありました。その疑獄事件こそ大手化学工業の昭和電工による大掛かりな贈収賄事件です。昭和電工の日野原節三社長は復興金融金庫から融資を得るため、政界に金をばら撒く一方で金融機関やGHQ民政局の高官を派手に接待していました。政界では社会党を工作の中心にしていた事から、連立を組む芦田政権の命取りになると見られていたのです。

捜査当局が事件の端緒を掴んだのは芦田政権誕生の4ヶ月前でした。政権が誕生した2ヵ月後に警視庁捜査二課が昭和電工本社を家宅捜索、押収資料をもとに日野原社長ら昭和電工関係者が逮捕され、その自供から大蔵省主計局長の福田赳夫氏、自由党顧問の大野伴睦氏、副総理であった社会党の西尾末広氏らが逮捕されました。芦田内閣は7ヶ月で総辞職に追い込まれ、総理を辞めた後に芦田氏も逮捕されます。

推理小説家の松本清張氏は、占領下の日本社会の闇を題材に『日本の黒い霧』という本を書きましたが、松本氏はこの事件をGHQの反共グループ(G2)と民主化グループ(GS)の暗闘によると見ています。本の中では「G2が日本の検事局と警察側に働きかけ、昭電疑獄事件に点火する事によって民政局のケージス一派を掃蕩しようとする陰謀と計画があった事は確かのようだ」と言う政治評論家・細川隆元氏の言葉を引用しています。

昭和23(1948)年12月に収賄罪で東京地検に逮捕された芦田均氏は、「政界を引退したらどうか」と迫る取り調べ検事に対し、「私は私の行為が絶対に違法ではないと確信している。私はこれから闘う」と答えたと言います。しかし芦田氏の無罪が確定するまでに10年の月日が流れました。昭和電工事件で事情聴取された人間はおよそ2000人、逮捕されたのは10人の国会議員を含む64人でしたが、有罪となったのは日野原氏と経済安定本部長官を務めた栗栖赳夫氏の2人だけでした。

外交官から政治家になった芦田氏は、戦前の大政翼賛会運動に反対し、反軍演説をした斉藤隆夫氏を国会が除名しようとした際に反対票を投ずるなどリベラルな政治家でした。憲法9条の原案に「芦田修正」を施し、アメリカが日本に軍備放棄を命令する表現から、日本が主体的に平和を希求する表現に変えた事で有名です。しかし総理大臣としては何の業績も残せないまま辞職に追い込まれました。

『日本の黒い霧』に書かれているように、日本の捜査機関が「見えない権力」の陰謀で動かされていたとするならば、芦田氏は不運の宰相と言うしかありません。いや芦田氏の不運と言うより日本国の不運です。ところが戦後64年も経ってから「第二の昭電疑獄が起きた」と言われたのです。それを我々はどう受け止めれば良いのでしょうか。(続く)