ニッポン維新(145)民主主義という幻影―31

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造船疑獄事件には不思議な点が色々あります。そのナゾを宮本氏が列挙しています。1.犬養法務大臣の指揮権発動に検察が抵抗しなかったのはなぜか。2.犬養法務大臣は「任意捜査すべし」と言っているのに、検察が捜査を終らせたのはなぜか。3.指揮権発動の二ヵ月後に後任の法務大臣は指揮権発動を解除した。しかし検察が捜査を再開しなかったのはなぜか。4.法務大臣が辞めても検察首脳が誰も責任を取らなかったのはなぜか。5.造船疑獄事件の捜査関係者はその後いずれも出世した。それはなぜかです。

一方で犬養法務大臣は指揮権発動をやりたくなかった事が分かっています。指揮権発動の前に辞表を出して抵抗していました。それを慰留して指揮権発動をやらせたのは緒方竹虎副総理です。指揮権発動に誰よりも積極的だった緒方副総理は「清廉な政治家」と国民から思われていましたが、それがなぜか指揮権発動を押し通したのです。

それでは誰が検察庁法14条による指揮権発動を考えたのか。これにも定説があります。検察内に二つの派閥の抗争があり、一方が検察庁法14条の存在を政治家に教え、指揮権発動させ、法務・検察首脳を引責辞任させて自分たちが主導権を握ろうとしたというのです。

しかし辞任したのは法務大臣だけで、検察首脳は誰一人責任を取っていません。この定説も目くらましの情報に思えます。宮本氏は『佐藤栄作日記』や『評伝緒方竹虎』を読み込み、緒方副総理と検察幹部の接触の事実をつかみました。緒方副総理はこの時期に馬場義続東京地検検事正と会い、さらに佐藤栄作氏を取り調べていた河井信太郎主任検事とも面会していました。この二人が検察庁法14条の存在を教えた可能性が高いと宮本氏は推測します。それではなぜ検察が指揮権発動を緒方副総理に教えたのでしょうか。

事件から40年経った1994年3月号の「文芸春秋」に、岡原昌男元最高裁長官が書いた記事に宮本氏は注目します。そこには「私はあの事件は起訴しないでよかったと思った。というのは、事件の調査が非情に粗雑で、抜け穴だらけだったからである。(中略)これでは起訴してもとても公判維持は難しかったであろう。だからあの段階で止めて大恥をかかなくてよかったといえる」と書かれていたのです。

検察が思い込みで大掛かりな捜査を始めたものの、証拠が不十分で公判維持が難しい状況に追い込まれ、しかし世論が盛り上がっているので自ら捜査を中止するわけにも行かず、それで指揮権発動を思いついたのではないかと宮本氏は推論します。

政治家に検察庁法14条を耳打ちし、政界が捜査にストップをかけさせれば、検察は傷つくどころか逆に世間から同情され、捜査が不備であった事を秘匿すれば政界からも感謝され、世論の反発は法務大臣の辞職で切り抜ける。そのようなシナリオがあったと考えればナゾは解けるのです。そうだとすると指揮権発動を考えた馬場・河合コンビは検察の窮状を救い、政治家に貸しを作った事になります。

それを裏付けるように馬場氏は検事総長に上り詰め、河井特捜部長が率いる東京地検特捜部は65年に「吹原産業事件」、66年に「田中彰冶事件」や「共和製糖事件」と政界汚職を次々に摘発して華々しく甦りました。しかしそれらの事件をよく見ると、摘発された政治家はいずれも佐藤栄作氏のライバルである池田勇人氏と河野一郎氏の派閥の議員です。

実は佐藤氏と馬場氏は同じ旧制五高の出身で佐藤氏が馬場氏の1年先輩でした。そして馬場氏が検事総長に就任した10ヵ月後に佐藤氏が内閣総理大臣に就任します。その佐藤政権時代に「吹原産業事件」、「田中彰冶事件」、「共和製糖事件」は摘発されたのですが、それは佐藤政権に打撃を与えるどころか、佐藤氏に脅威となる自民党内の勢力を検察が力で排除して、長期政権を可能にしたのでした。

『佐藤栄作日記』には、検察幹部が検察の人事について佐藤総理に直接相談している様子も描かれています。造船疑獄事件で被疑者だった佐藤栄作氏は指揮権発動後に検察と不可解な関係を築いていたのです。宮本氏は、造船疑獄事件には依然として解明されていない「闇」があり、それが解明されないために「特捜部=政治の被害者」、「特捜部=オールマイティ」という誤った二つの思想が、ロッキード事件の異常な捜査手法を経て現在に踏襲されていると結論付けています。(続く)