ニッポン維新(153)情報支配―3

私は福田康夫政権が公文書管理法を成立させ、2011年の4月から施行されていた事をこの時まで知りませんでした。2001年に施行された情報公開法については新聞やテレビも大きく取り上げ、私もそれを利用して官庁に情報公開請求を行った事があります。しかし公文書管理法の成立については報道を見た記憶がなく、その重要性を認識していませんでした。

ところで公文書管理法と情報公開法を考えてみると法律の順序が逆さまです。日本では官庁に対して行政文書の管理を義務付ける法律がないのに、行政文書の公開を義務付ける法律が出来ていた事になります。先に行政文書の管理を義務付け、それから公開させるのが順序です。

2001年に私は情報公開法に基づいて官庁に情報公開請求をしましたが、満足のいく情報は得られませんでした。役所は様々な理由をつけて情報の公開を拒み、また入手できた文書も肝心な部分は文字が黒く消されていました。これが情報公開なのかとがっかりした覚えがあります。それは公文書管理法がなかったためだったのかもしれません。

1934年に設立されたアメリカ国立公文書館の入り口には「ここから民主主義が始まる」と書かれています。そこには政府機関、連邦議会、裁判所、大統領の記録がすべて保存され、それを国民に公開する事が民主主義の基本であると考えられています。

国民の税金を使って集めた情報は納税者に還元されなければならない。それがアメリカ民主主義の考え方です。だから公文書は作成され、保存され、国民に公開されているのです。国民が国家の真実の姿を知らなければ正しく主権を行使することが出来ないと考えるからです。

日本にも国立公文書館はあります。こちらは1971年に設立されました。歴史学者たちの要望で研究のための歴史資料を保存する目的で作られましたが、作られたときには法的な枠組みもありませんでした。法律が出来たのは1999年になってからで、地方に郷土史などの資料を保存する公文書館を作る法律が出来た事を受けています。このように日本の国立公文書館は民主主義のためにではなく、歴史資料を保存するのが目的です。

ここでも公文書管理法がないままに国立公文書館が作られていた事が分かります。初めに作らなければならない法律を作らずに国立公文書館が出来、情報公開法が作られたバラつきをどう理解したら良いのでしょうか。それを調べているうちに若い歴史学者が書いた『公文書をつかう』(青弓社)という本にぶつかりました。

著者の瀬畑源氏は日本の近現代史を研究している30代の学者です。瀬畑氏はまだ大学院生の頃に、天皇の少年時代を調べるため宮内庁に資料の情報公開請求を行いました。ところが宮内庁が資料の公開に応じてくれず、公開された資料も私の場合と同じで肝心な部分が黒塗りされていました。

瀬畑氏は宮内庁に対し不服申し立てを行いました。情報公開審査会は申し立てを認めましたが、それでも宮内庁は資料を公開しません。瀬畑氏はついに裁判に訴え、裁判の過程で理解者を得るためインターネットにブログを書くようになり、さらにこの国の公文書管理制度について調べるようになりました。

そこで得られた知識が『公文書をつかう』に盛り込まれています。なぜ日本では官庁が行政文書を作成し、保存し、それを国民に公開する仕組みを作らないできたのか。法律の順序が逆さまになってしまったのはなぜか。瀬畑氏は近現代史を研究する歴史学者の目でその問題を解き明かしています。(続く)