ニッポン維新(154)情報支配―4

Pocket

公文書管理制度はその国の政治制度と密接な関係があります。そこで日本の公文書制度の問題点を探るためには、日本が近代国家としてスタートをきった明治期の政治制度から考えてみる必要があります。

日本が近代国家の体裁を整えるため内閣制度を作ったのは1885年(明治18年)、憲法が制定されたのは1889年(明治22年)、議会が開設されたのは1890年(明治23年)ですが、それまでは「王政復古」の旗印の下で律令制時代の太政官制度が採用されていました。

1871年(明治4年)に欧米を視察した岩倉具視の一行は、帝国主義列強の過酷な競争を目の当たりにして国内体制の近代化を痛感します。薩長藩閥政府は1882年(明治15年)に伊藤博文をヨーロッパに派遣して政治制度の改革に取り組む事にしました。伊藤はまず行政府を中心とした国家体制を作り、ついで議会政治を定着させていく構想を抱いて帰国します。

その構想に従って1885年(明治18年)に内閣制度が作られ、伊藤が初代の内閣総理大臣に就任しました。伊藤の考える総理大臣は他の大臣より優越的地位にあり、行政各部を統括する役割を担うはずでした。ところが藩閥政治家たちはそれに反対でした。維新を成し遂げた同志に優劣をつけるのはおかしいという思いが、総理の風下に立つ事を潔しとしなかったのです。

そのため大日本帝国憲法が制定された時、内閣総理大臣は行政各部を「統括する」のではなく、「統一を保持する」だけの存在に変えられました。大臣はみな平等で内閣総理大臣はその中の首席という扱いになりました。行政各部を統括するのは総理ではなく天皇で、行政機関の制度や人事もすべて天皇の権限に委ねられたのです。

従って国務大臣がそれぞれ単独で天皇を輔弼する(進言して責任を取る)「単独輔弼制度」になり、国務大臣は国政全体に責任を負うというより、各省庁の利益代表と位置づけられました。こうして日本の行政府は各官庁がそれぞれ天皇―大臣―官吏という縦割りの体系に組み込まれ、内閣の一体感より各官庁の独自性が重んじられる事になりました。今でもの日本の問題点は「縦割り行政」と言われますが、そのルーツはここにあります。

これが公文書管理制度に大きな影響を与えました。官僚は「天皇の官僚」で、官庁ごとに縦割りですから、行政文書の保存や管理の仕方もバラバラになります。まして保存した公文書を国民に見せるという発想は出てきません。行政文書全体を統括した公文書館を作る発想にもなりませんでした。

従って行政文書はそれぞれの官庁が自らにとって価値のあるものを優先して保存する事になります。瀬畑氏によりますと、官僚が最も重視したのは人事の記録で、政策については決まった後の結果は保存されますが、政策決定のプロセスはほとんど廃棄され、残っていない事が多いそうです。

公私の別も未分化で、公文書を「自分のもの」と考える政治家や官僚が多く、省内で保存されずに自宅に持ち帰る傾向があり、そのため日本の歴史学者は公文書よりも政治家や官僚の個人文書を研究の手がかりにする事が多いというのです。

しかし例外的に公文書を保存する仕組みを作った官庁もあります。それが宮内庁と外務省でした。皇室では「先例」を残す事が必要不可欠であり、天皇の死去後には必ず「実録」が編纂されるため多くの公文書が残され、また外務省では外交交渉の「過程」を残す事が政策上必要だった事からこちらも大量の公文書が残されました。宮内庁と外務省は現在でも国立公文書館とは別に独自に宮内庁書陵部と外交資料館に公文書を保存しています。

天皇の「単独輔弼制度」に端を発する官庁の縦割り制度は、行政を受ける国民の視点を意識する事無く、それぞれの官庁にとって有用な文書だけを保存する仕組みを作り出しました。その仕組みは日本が第二次世界大戦に敗れて新憲法が誕生するまで続きますが、しかし新憲法が出来ても官僚の意識と組織が変わる事はありませんでした。(続く)