ニッポン維新(158)情報支配―8

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国民が政治の主人公として主権を発揮するために必要な情報公開法は2001年4月に施行されました。施行によって日本国民は公文書にアクセスできる「権利」を持つ事になりましたが、しかし情報公開法の施行は様々な問題点を浮かび上がらせました。

まず公文書の「不存在」が明らかになったのです。2001年度から08年度まで情報公開が決定された件数の3パーセントから10パーセントが「不存在」を理由に開示されませんでした。官僚に必要な文書しか保存してこなかった事が第一の原因です。

官僚は「決裁文書」は残すものの「政策決定過程」には興味がなく、従って「政策決定過程」を記録した文書が残っていないのです。ところが国民が知りたいのは結果ではなくプロセスです。従って「政策決定過程」の情報公開請求がなされても、それは「不存在」となるケースが多いのでした。

また情報公開法の施行を前に各役所が大量の文書を廃棄した事も明らかになりました。これが第二の原因です。情報公開法は各役所に対し、作成されてから30年以上経過した文書の保存期間を、(1)「延長」するか、(2)国立公文書館に移管するか、(3)「廃棄」するかの選択を迫りました。すると役所は「廃棄」する選択を優先したのです。

情報公開法施行直前の2000年度に農林水産省は前年度の20倍に当る文書を廃棄しました。他の役所もこの時期には通常の2倍以上の文書を廃棄しています。まず情報公開されたくないため「隠蔽」した可能性が考えられます。また前述のように官僚にとって不必要と思われる文書を大量廃棄した可能性もあります。とにかく「廃棄」の判断は官僚に委ねられているわけで、官僚に都合の良いように「廃棄」が行なわれたのです。

さらに深刻なのは情報公開法が施行されたため、行政文書を作らずに「個人メモ」の形で情報を残すという手法を役所が取り入れるようになりました。情報公開法の骨抜きが図られるようになったのです。これらに共通する問題は「行政文書が適正に管理されていない」という現実です。つまり日本では行政文書の適正な管理もないまま情報公開法を作ってしまったという倒錯した現実に直面したのです。

そこでようやく公文書管理法の重要性が認識されるようになりました。その公文書管理法を制定に至らせた第一人者は自民党の福田康夫衆議院議員でした。福田氏は父赳夫氏の秘書をしていた時代に、後援者が敗戦直後の前橋市の写真を探している事を知り、写真の発見に協力しまじた。

日本国内ではどうしても見つからず、占領軍が撮影した可能性に望みをつないでアメリカの国立公文書館に問い合わせました。するとすぐに写真が出てきたそうです。その事に感銘を受けた福田氏は公文書館制度に関心を抱くようになりました。

2002年、小泉内閣の官房長官であった福田氏は内閣府官房長の下に公文書管理制度についての「研究会」を作り、2003年にはそれを「懇談会」に格上げさせました。官房長官を退任した後も「議員懇談会」を作って公文書管理法の制定に取り組んでいましたが、2007年に安倍総理の突然の辞任によって福田氏に総理の座が舞い込んできました。

総理大臣となった福田氏は2008年の施政方針演説で「公文書の保存に向けた体制整備」を宣言します。折から年金記録問題が社会的に大問題になっていました。保存されなければならない年金記録が消えてしまっていたのです。公文書管理法はこうした問題に対する解決策と考えられ、にわかに注目を浴びました。こうして福田康夫内閣の下で公文書管理法制定の道筋が作られていくのです。(続く)