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2010/5/24 ニッポン維新(79)アメリカという権力−5
2010/5/14 ニッポン維新(78)アメリカという権力−4
2010/5/06 ニッポン維新(77)アメリカという権力−3
2010/4/20 ニッポン維新(76)アメリカという権力−2
2010/4/15 ニッポン維新(75)アメリカという権力−1
2010/4/02 ニッポン維新(74)戦後疑獄史の真相−6
2010/4/02 ニッポン維新(73)戦後疑獄史の真相−5
2010/3/17 ニッポン維新(72)戦後疑獄史の真相−4
2010/3/03 ニッポン維新(71)戦後疑獄史の真相−3
2010/2/23 ニッポン維新(70)戦後疑獄史の真相−2
2010/2/16 ニッポン維新(69)戦後疑獄史の真相−1
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2010/1/29 ニッポン維新(67)龍馬にとっての維新−5
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2010/1/14 ニッポン維新(65)龍馬にとっての維新−3
2009/12/18 ニッポン維新(64)龍馬にとっての維新−2
2009/12/10 ニッポン維新(63)龍馬にとっての維新−1
2009/12/03 ニッポン維新(62)明治維新に見る変革の実像―4
2009/11/20 ニッポン維新(61)明治維新に見る変革の実像―3
2009/11/12 ニッポン維新(60)明治維新に見る変革の実像―2
2009/10/31 ニッポン維新(59)明治維新に見る変革の実像―1
2009/10/11 ニッポン維新(58)維新の始まり
   
 


ニッポン維新(79)アメリカという権力−5

 第二次世界大戦後の国際秩序を決めたのは1945年2月と7月に開かれた米英ソ三国の首脳会談です。2月のヤルタ会談では戦後ドイツを米英仏ソで分割統治する事や国際連合を設立して米英仏ソに中国を加えた5カ国が拒否権を持つ事などを決めました。またアメリカのルーズベルト大統領は千島列島をソ連に引き渡す代わりにソ連が日ソ不可侵条約を破棄して参戦するようスターリンに促しました。

 ドイツ降伏後のポツダム会談は、ドイツの戦後処理と日本に無条件降伏を促すポツダム宣言を話し合いました。日本政府はポツダム宣言を「拒否」して徹底抗戦を続けますが、8月6日に広島、9日に長崎に原爆が投下され、また9日にはソ連軍が日ソ不可侵条約を破棄して日本攻撃を始めたため「受諾」に転じます。8月15日、無条件降伏と戦争の終結が国民に知らされました。

 アメリカの日本解体が始まります。軍国主義を支えた諸勢力が解体・追放の対象でした。戦前からの政治家はほとんど公職追放されました。官僚機構の中心に位置した内務省は分割され、代わりに大蔵省が官僚機構の中枢に据えられました。大本営発表を垂れ流した国策会社同盟通信は共同、時事、電通の三社に分割されます。また軍国主義の経済基盤となった財閥と封建主義の残滓である地主制は解体され、労働組合の育成が図られました。

 しかしこれらの解体・追放にはおかしな事が多々あります。例えば戦前から軍部を批判してきた石橋湛山が追放されたように政治家には厳しい公職追放が、官僚に対してはそうでもなく、裁判官などは戦前の人脈がそのまま温存され、また特高警察も間もなく公安警察として復活します。

 民主主義のアメリカでは官僚の力は弱く、政治家の力と責任が圧倒的に大きい事から、政治家には厳しく官僚にはそれほどでなかったのかも知れません。だとするとアメリカは日本の権力の仕組みを知らなかった事になります。明治以来の日本はアメリカと異なり官僚が支配してきた国家です。官僚機構を解体しなければ旧体制を変える事になりません。

 そうした典型として戦時中の「国家総動員態勢」はそのまま残されました。戦前の「革新官僚」が作成し、霞ヶ関を司令塔にした計画経済体制が戦後に引き継がれたのです。戦前業界毎に作られた「統制会」は「経団連」や「農協」などに形を変えますが、銀行が企業を支配し、その銀行を大蔵省が支配する仕組みはそのままでした。また終身雇用制や年功序列賃金など日本株式会社独得の仕組みも生き残りました。こうして「1940年体制」と呼ばれる官僚主導体制は生き続け、後に日本に高度経済成長をもたらします。

 私に言わせればアメリカの日本解体工作は日本の権力構造を正確に把握したものではありませんでした。しかし日本のメディアはこの解体工作を「民主化」と宣伝しました。戦後の日本には言論の自由があると思わせながら、実は戦前以上の情報統制がアメリカによって敷かれていました。そして冷戦が始まるとアメリカの対日政策は180度転換するのです。

 1946年3月、英国首相チャーチルは「ヨーロッパに鉄のカーテンがおろされた」と演説して東西冷戦の始まりを告げました。アメリカの外交官ジョージ・ケナンもソ連の膨張主義に警告を発し「封じ込め戦略」を主張しました。トルーマン大統領は47年の一般教書演説で「トルーマン・ドクトリン」を宣言し、米ソの冷戦が始まりました。

 アメリカの占領政策は大きく変更されます。46年11月に公布された日本国憲法には冷戦以前の思想が反映されていますが、47年以降はそれが変わりました。48年に朝鮮半島が分断され、49年に東西ドイツが分裂、中国に共産党国家が誕生すると、日本はアメリカによって西ドイツと並ぶ「反共の防波堤」と位置づけられました。そして「ソ連封じ込め戦略」により、西ドイツも日本も「共産主義化させないため」に経済的な豊かさを保証される事になりました。

 50年に起きた朝鮮戦争はアメリカの対日政策を決定的にします。日本から米軍が出撃するために在日米軍基地が必要となり、さらに補給のため日本をアメリカ並みの工業国に育てる必要が生まれました。軍国主義を一掃するため解体・追放した勢力をアメリカは復権させる事にします。旧軍人や軍需産業に再び光が当たり、アメリカは日本政府に再軍備を促します。しかし経済復興を最優先にする日本に軍備を整える余裕はありませんでした。こうして1952年、日本は独立と同時に日米安保条約を結び、安全保障をアメリカに全面的に委ねる事になるのです。(続く)  

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ニッポン維新(78)アメリカという権力−4

 日露戦争後、アメリカに渦巻いた「ウォースケア」という「対日恐怖」に日本はピンときませんでした。アメリカ艦隊が日本攻撃の予行演習として太平洋を渡って来たのを日米友好の証と受け止めました。同じような事が冷戦後にも起こります。

 ソ連に代わる脅威を探していたアメリカは「日本経済」を次の脅威と断定します。当時のアメリカには日本製品が「集中豪雨的」に輸出されていました。アメリカ議会は公聴会を開いて対日政策を議論します。「ソ連封じ込め」を作成した時と同様のチームを作り、対日封じ込め戦略を構築する必要があるとの結論に達しました。ところが日本の新聞にはその記事が載りません。日本外交の基軸である「日米同盟」を揺るがすような記事は表に出ないのです。そのため日本人は冷戦後にアメリカの日本を見る目が全く変わった事を知りません。

 日本を国際連盟から脱退させ、日独伊三国同盟と日ソ不可侵条約を結んだ松岡洋右は、14歳から23歳までの青春時代をアメリカで過ごしました。苦学生として人種偏見に遭遇した事も多かったようです。そこからアメリカ人を相手にする時は「殴られたらすぐ殴り返さなければならない」という人生訓を身につけました。松岡の留学時期は「ウォースケア」で日本移民排斥運動が起こる直前です。

 1929年に起きた世界恐慌は資本主義の限界を知らしめました。アメリカではF・ルーズベルト大統領が「ニューディール政策」を行い、国家が経済に介入します。社会主義的な政策です。一方でソ連のスターリンやドイツのヒトラーは強権的な計画経済を押し進めて華々しい成果を上げました。日本にも国家社会主義が台頭し、満州を舞台に計画経済が進められ、国内にも「1940年体制」と呼ばれる総動員態勢が敷かれました。

 その頃外務大臣を務めた松岡は、「日本はアングロサクソンの資本主義と戦争するのだ」と主張して国家社会主義のドイツ、イタリアと同盟を結び、共産主義のソ連とも不可侵条約を結びました。松岡によれば日中戦争は「中国の後ろにいる英米と戦っている」のであり、日本人は「道義的共産主義者である」と言うことになります。

 一方、アメリカのF・ルーズベルト大統領は大の中国びいきでした。母親の実家は中国貿易で財をなした裕福な家庭で、母親も中国で暮らしたことがあります。ルーズベルトは幼少時代から中国の話を聞かされて育ちました。従って日本の中国膨張政策を快く思うはずがありません。ルーズベルトは蒋介石政権を支援し、早くから対日戦争を覚悟していました。

 真珠湾攻撃の情報は暗号解読されてアメリカ側は察知していました。しかし日本軍兵器の優秀さはアメリカの想像を超えました。日本の砲弾がアメリカ艦隊の厚い鉄板を貫通する一方、アメリカの魚雷防御網は日本軍の攻撃技術で全く役に立ちませんでした。アメリカは再び言いようのない怖れを日本に抱きます。それが日系人の強制収容となって現れました。

 ドイツとイタリアと日本が敵国であったにも関わらず、真珠湾攻撃から4日後に日系人だけが検挙されて砂漠の強制収容所に送られました。ドイツとイタリアは「国が悪い」のであり国民に責任はない。しかし日本だけは「国と国民のすべてが悪い」と考えられたのです。

 太平洋戦争で連合軍を指揮したダグラス・マッカーサーは、戦争開始時に「1年以内に勝利してみせる」と語ったそうです。国力の差からそう思ったのでしょう。日本の山本五十六も「半年か1年なら暴れて見せる」と言ったそうですから、マッカーサーの大言壮語とばかりは言えません。しかし現実は違いました。マッカーサーは逆に日本軍に追いつめられてフィリッピンからオーストラリアへ敵前逃亡を余儀なくされたのです。

 日本の零戦を見たマッカーサーは「ドイツ人が操縦している」と言ったそうですから、そもそも日本人を見下していた訳です。それが敵前逃亡を余儀なくされた訳ですから、その屈辱は想像に余りあります。要するに日本はアメリカの理解を超えた存在なのです。
 
 1945年の8月15日、日本は無条件降伏しました。その日のニューヨークタイムズには、ナマズのような巨大な怪獣が口をあけていて、その口の中に入ったアメリカ兵が怪獣から牙を抜いている漫画が掲載されました。そして社説には「怪獣は倒れはしたが、いまだに危険な存在である。一生かかってもこの動物の牙を抜き去って、解体しなくてはならない」と書かれました。終戦の日にアメリカ人が見た日本は異様な怪獣であった訳です。(続く)

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ニッポン維新(77)アメリカという権力−3

 日米の外交史は1853年のペリー来航に始まります。アメリカはイギリスに遅れをとった中国貿易を進展させるため中継地として日本を開国させようとしました。1852年にアメリカを出航したペリー率いる艦隊は大西洋からインド洋経由で1年半をかけて浦賀沖に到着し、徳川幕府にアメリカ大統領の親書を受け取るよう要求します。

 鎖国していた日本は長崎を唯一の外国との窓口にしていたので、幕府は長崎に向かうよう説得します。ところがペリーはこれを拒否して恫喝に打って出ました。戦闘態勢のまま艦隊を江戸湾に乗り入れ、開戦も辞さない構えを取りました。幕府はこれに屈します。何しろ蒸気で動く軍艦は、鎖国政策で大船の建造を禁じていた日本にとって圧倒的な軍事テクノロジーでした。とても勝ち目はないと判断されました。しかしペリーの「遠征航海日誌」は、大統領親書の受け渡し式典に5千もの武士を集めながら、何も攻撃してこない日本人の性質をあざ笑っています。

 ペリーは徳川幕府の要求通りに長崎で交渉するオランダのやり方を「屈辱外交」と考え、「鎖国した奇妙な人々を文明国の仲間入りさせる」ための「恫喝外交」を「権利の要求」と捉えます。「恫喝」を「権利」と捉えるところにアメリカの日本を見る目があります。日米外交の第一歩はこうして始まりました。

 1945年9月、太平洋戦争に敗れた日本の降伏文書調印式が戦艦ミズーリで行われました。その艦上にはペリーが江戸湾に進入した時に旗艦サスケハナに掲げられていた星条旗がはためいていました。そこでマッカーサー元帥は「我々が今日思い出すのは、92年前この地に到来したアメリカ人、ペリー提督であります。提督の目的は日本に啓蒙と進歩の時代をもたらすことでありました」と演説します。「文明国の仲間入りさせる」、「啓蒙と進歩をもたらす」、本当でしょうか。歴史はこのように支配者の論理で作られていくのです。

 ペリー来航から52年、1905年に日本は日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を破りました。これにアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領が驚きます。この年はスペインの無敵艦隊をイギリスが破ったトラファルガー海戦の百周年に当たり、ルーズベルトはそれに匹敵する海戦だと褒めちぎりました。

 ペリー来航の時、1隻の大船も持っておらず「恫喝外交」に屈した日本が、ロシア帝国の大艦隊を撃破出来るとは思いもよらなかったのです。ルーズベルトは早速日露の調停役を買って出ました。ロシアも日本も潰さずに「対立的均衡」を維持させて、日本をロシアの防波堤にしようとしたのです。それがアメリカの国益でした。

 ルーズベルトは一度は日本の勝利を喜び、ポーツマス条約で日本を列強の仲間入りさせますが、次第に懸念を抱きます。1898年と99年に併合したハワイとフィリッピンが日本の脅威にさらされると思い始めたのです。ルーズベルトはハワイとフィリッピンの要塞化に取り組みます。

 一方で日本はロシアの反撃に備え軍事予算を倍増します。するとドイツやイギリスで日米が戦えば6対4で日本が勝つという噂が流れ、それがアメリカに「日本人が海を渡って襲ってくる」という怖れを抱かせました。これを「ウォースケア」と言いますが、カリフォルニアでは日本移民排斥運動が起きました。

 ところが日本は「ウォースケア」にピンと来ないのです。アメリカは日露戦争の前年に日本を仮想敵国とする「オレンジ作戦計画」を作成していましたが、ルーズベルトはその予行演習を命じます。アメリカを出発した艦隊が太平洋巡航を経て日本に寄港すると、日本の新聞はそれを日米友好の証と勘違いしました。

 薩長藩閥の枠外にいた陸奥宗光や小村寿太郎などを除けば、明治の元勲達は国際的外交の経験に乏しい子供でした。伊藤博文はルーズベルトの写真を部屋に飾っていたと言われますし、山県有朋は日清戦争後にロシアに手玉に取られています。いずれにしてもアメリカが日本を仮想敵国として作戦計画を作り、それに従って予行演習を行い、或いは日本をロシアの防波堤に利用するため好意的姿勢を見せているのに、日本はアメリカに対していわれのない親近感と甘えの姿勢を取るのです。(続く)


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ニッポン維新(76)アメリカという権力−2

 支配者は歴史を都合良く書き換えます。支配される側に流れるのは常に支配のための情報です。戦後の日本を支配してきたのはアメリカです。従って日本に溢れるアメリカ情報は信用ができません。学者やジャーナリストの情報を鵜呑みにするとまんまと騙されます。
 
 例えば、戦後の学校給食はパンとミルクで始まりました。アメリカの余った小麦と脱脂粉乳が日本の子供達に提供されたのです。食糧難の日本はアメリカに感謝をし、高名な学者が「健康にはパンと乳製品が一番だ」と言いました。すると「ご飯を食べると頭がぼける」とか「日本人の寿命が短いのはご飯のせいだ」という情報がメディアに溢れ、日本人はご飯を食べなくなりました。「朝食はパン」がライフスタイルになりました。しかしこれらの情報は大嘘です。

 子供にパンの味を覚えさせれば、日本人は一生パンを食べ続ける。つまりアメリカの農産物輸出が保証されるという計算がアメリカにはありました。私は1980年代の初めにアメリカの水田面積が拡大していることを知り、アメリカに取材に行った事があります。アメリカの米どころであるアーカンソー、テキサス、ルイジアナ、カリフォルニアの各州を回り、米作の実態を調べました。

 すると興味深い事が分かりました。アメリカが米作に力を入れる理由は二つありました。一つは第二次世界大戦後の戦争は、朝鮮戦争、ベトナム戦争、中東戦争といずれも米を食う地域で行われており、米は戦略物資になるという理由。もう一つはヨーロッパ向けに米を輸出しようとしていたのです。

 その頃のヨーロッパはECを作って各国間の関税を撤廃し、食糧はヨーロッパ内で自給自足しようとしていました。それまでヨーロッパに農作物を輸出してきたアメリカには大打撃です。そこで考えられたのが、戦後日本人にパンを食べさせることに成功した事例です。ヨーロッパで米を作れるのはスペインとイタリアだけ、他は寒冷のために米が出来ません。アメリカはそこに目を付け、ヨーロッパの子供たちに米を食べさせる運動を始めました。

 「米は完全栄養食品である」、「子供の健康には米を!」などの標語を作り、スイスのチューリッヒに本部を置いて「米食普及運動」を始めたのです。ライス・ピザ、ライス・スパゲティ、ライス・サラダ等々のレシピも開発しました。子供の頃、「健康のためにパンを食え」と教えられ、「米を食うとバカになる」と言われた日本人にとってはやりきれない話です。しかしこれがアメリカです。アメリカの世界戦略です。そしてその宣伝部隊に学者やジャーナリストが動員されるのです。

 その後、肥満に悩むアメリカは自分たちの食生活を反省し、最も健康に良いのは日本の江戸時代の食生活で、米、小魚、海草、味噌汁を食べるのが理想的だと言い始めました。日本食が世界中でブームになったのはこのヘルシー志向のお陰です。ですからくれぐれも学者やジャーナリストの言うことを鵜呑みにしてはいけません。彼らは世界の支配者の手先になる事が多いのです。

 そこで日本に溢れるアメリカ情報には耳を傾けず、むしろアメリカが日本をどう見てきたかという視点で日米関係を再検証してみようと思います。アメリカは鎖国を開いて日本に近代をもたらし、戦後は日本が世界第二位の経済大国になる端緒を作った重要な国です。そしていまでも日本を支配しています。日本が真に自立を目指すには、アメリカ側の視点を知ることが大事です。(続く)


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ニッポン維新(75)アメリカという権力−1

 日本は「民主主義」ではなく「官主主義」、「主権在民」ではなく「主権在米」だと言われます。「ニッポン維新」を実現するためには、官僚機構が政治をコントロールするための「政治とカネ」の疑獄捜査と、アメリカという権力の壁を乗り越えなければなりません。

 日本は戦後7年間アメリカに占領され、国の構造の多くはアメリカの手で作られました。ところが占領時代の日本に報道の自由はなく、情報は厳しく統制されてきました。国民は未だに当時の真相を知る事が出来ません。最近沖縄返還を巡る「密約」が日の目を見ましたが、それは知られざる日米関係のごく一部に過ぎません。日米関係には検察の疑獄捜査と同様に信じ込まされてきた数多くの「嘘」があるのです。

 私は冷戦が終わる1990年から9・11の同時多発テロを経てイラク戦争に至るまで、ワシントンに事務所を持ってアメリカ議会の議論を見てきました。世界の構造が激変する時期の議論ですから大変勉強になりました。アメリカにとって冷戦とは何であったのか、アメリカはどのようにして冷戦をくぐり抜け、冷戦後の世界をどのように管理しようとしているのか、それらを教えられました。同時にアメリカの日本を見る目も知る事が出来ました。それは報道されているアメリカ像とは異なるものです。

 これまでの「常識」を離れてアメリカの実像を見る必要があります。これからそれを書いていこうと思います。アメリカを知るためには、まず世界を支配する「帝国の論理」を知らなければなりません。アメリカ議会の議論はそれを痛感させました。勿論議会では国内問題も議論されますが、多くはアメリカが世界をどう管理するかという議論でした。支配の論理の対象として日本も取り上げられました。

 帝国が帝国であるために欠かせない条件があります。アメリカにとっての第一は世界最強の軍事力を維持する事です。冷戦期に核弾頭の保有数でソ連に負けていたアメリカは、それを覆すため精密誘導兵器を開発しました。湾岸戦争はそのお披露目の場でした。精密誘導兵器の登場でソ連のゴルバチョフ書記長はソ連邦解体を決断したと言われています。アメリカの軍事技術がソ連崩壊を決定づけた訳です。従って世界最強の国家であり続けるために、アメリカは軍事技術革命に不断の努力を続けています。

 第二はドルが世界の基軸通貨であり続ける事です。戦後のブレトンウッズ体制は金に裏打ちされたドルを世界の基軸通貨と決めました。しかしベトナム戦争でアメリカは財政破綻に陥り、金流出の危機にさらされます。するとニクソン大統領は金とドルとの交換停止を一方的に宣言し、ドルは金のくびきから解放されて自由になり、石油の唯一の決済通貨としてさらに基軸通貨の地位を強めました。

 ドルに挑戦したのはユーロです。イラクのサダム・フセイン大統領がフランスのシラク大統領とユーロによる石油決済に合意し、独占的だったドルの地位が揺らぎました。その反撃がイラク戦争だったと私は見ています。「テロとの戦い」は世界の目をくらます騙しです。サダム・フセインとアル・カイダに接点はなく、大量破壊兵器も見つかりませんでした。フランスもドイツもイラク戦争には反対の立場をとりました。しかしアメリカには石油決済をドル以外の通貨にさせないという強い意思がありました。ところが現在、アメリカ発の金融危機で再びドルの地位が揺らいでいます。中国は人民元をアジア域内の共通通貨にし、さらにイランの石油を人民元で決済しようとしています。これにアメリカがどう対応するか注目されます。

 第三の条件は資源確保です。資源の最たるものは石油ですから、中東産油国を支配する事はアメリカにとって生命線です。世界経済を左右する石油価格の決定権をアメリカが握るのです。いずれ石油は枯渇しますが、アメリカは次のエネルギーにも目を向けています。さらにレアメタルなどの鉱物資源確保にもどん欲です。「テロとの戦い」を口実に中央アジアに米軍基地を拡げましたが、目的はその一帯の豊富な地下資源です。さらにアメリカは宇宙の資源確保まで計画しています。

 第四は情報支配です。世界中から情報を吸い上げる一方でアメリカの都合の良いように世界を洗脳するのです。アメリカが衛星で各国を監視し、盗聴をしている事は周知の事実です。「テロとの戦い」を口実にアメリカに入国する外国人の個人情報を全て蓄積しています。スパイ活動も冷戦後の方が盛んです。

 CNNテレビがアメリカ情報を世界に発信し、グーグルやヤフーがインターネットで世界を覆います。軍事力と同様に「ソフト・パワー」もアメリカは最強です。それが民主主義の衣をまとって行われます。アメリカは開かれた民主主義の体現者に見えますが鵜呑みにすると危険です。CNNが湾岸戦争でどれだけの「嘘」を流したかは知る人ぞ知る事実です。グーグルやヤフーの情報にも意図的な操作が施されています。各国の特派員たちはアメリカにとって貴重な洗脳要員です。情報をエサにアメリカの国益を刷り込んで自国に発信させています。

 アメリかという権力とどう向き合うかは歴代の日本の政治家が最も腐心してきた課題です。日本を「主権在米」から「主権在民」の国に変えるため、まずはこれまでの日米関係を再検証する事から始めます。(続く)


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ニッポン維新(74)戦後疑獄史の真相−6

 ベルリンの壁が崩壊した1989年はリクルート事件で竹下内閣が退陣し宇野内閣が誕生した年です。その宇野内閣も就任直後に参議院選挙の惨敗で退陣しました。1989年から現在まで日本の総理は15人を数えます。その間に中国の最高指導者は江沢民と胡錦涛の2人だけ、アメリカはブッシュ(父)からオバマまで4人、イギリスもサッチャーからブラウンまで4人です。冷戦崩壊後の政治指導者の数を他国と比べると日本の政治だけが不安定である事が分かります。

 なぜそうなるかを国民は冷静に考える必要があります。政治家を選ぶのは国民ですから他人事ではありません。日本の政治家の質が悪いとすれば国民の質が悪い事になります。しかし日本の技術力、経済力、教育レベルを見れば、日本人が他国より劣っているとは思えません。それなのになぜ政治だけが漂流するのでしょうか。

 私は冷戦崩壊の直前から10年以上アメリカ政治を観察してきましたが、アメリカの政治家が日本より質が上だとは思いません。むしろアメリカの政治家の方が利益誘導に懸命で、選挙を常に意識しながら政治活動をしています。違いがあるとすれば、アメリカでは国民がそれを当たり前と思い、日本ではそれが汚れた政治と思われている事です。

 民主主義は国民が自分たちの代表を国政の場に送り出し、自分たちの要求を実現して貰う仕組みですから、政治家が支持者から票と献金を貰い、支持者の利益のために働くのは当然です。しかし日本ではそれを「利益誘導」と呼んで批判してきました。明治以来の官僚国家の伝統です。官僚は政治家が国民の人気を得て力を持つことを許しません。自分たちが理想とする国家運営を行うためには国民の言うなりになる政治家は邪魔なのです。

 そのため官僚は星亨や原敬など力のある政治家に「利益誘導政治家」、「金権政治家」というレッテルを貼り潰してきました。その伝統が戦後も検察の疑獄捜査によって継続しています。そして官僚と二人三脚のメディアによって国民にもその伝統が刷り込まれているのです。アメリカ政治との第一の違いはそこにあります。

 国会でも与野党は専らスキャンダルを巡って争います。ロッキード事件でもリクルート事件でも国会はスキャンダル追及一色となり、野党は予算を人質にとって政権を揺さぶりました。国民生活に直結する予算の議論は全く行われず、「政治とカネ」の問題ばかりに時間が割かれました。国民の政治不信は否が応でも高まります。すると国民から「政治資金規正法を厳しくしろ」との声が上がり、政治資金規正法は改正に次ぐ改正を余儀なくされました。

 元々政治資金の透明化を目的とした政治資金規正法は、ロッキード事件を契機に政治献金の額の「規制」に踏み込みます。本来あってはならない事です。「規正法」は決して「規制法」ではないのです。世界の民主主義国で政治献金の金額を法律で規制している国などあるでしょうか。そんなことをすれば献金が闇に潜り、かえって実態が見えなくなります。しかし日本では額が規制され、国民はそのおかしさに気が付きません。それが世界と日本との「落差」です。

 アメリカの政治家にもスキャンダルはあります。しかしそれは司法の場で裁かれるか、議会以外の場所で追及されるので、議会がスキャンダルに振り回されたり機能不全に陥る事はありません。議会はあくまでも国民生活を議論するところなのです。ところが55年体制下の日本には政権を取ろうとしない野党がいました。政権を取る気のない野党は国民生活に責任を持つ必要もありません。予算審議よりスキャンダル追及が国民の人気を得る早道だと考えました。

 こうして官僚支配を継続するための装置である検察と、そのお先棒を担ぐメディアと、政権交代を望まない野党によって、日本の政治は世界の民主主義諸国との距離を拡げてきました。その結果が15人と4人の差だと思います。日本が真の「維新」を成し遂げるためには、検察の異常な疑獄捜査とそれがもたらす「政治とカネ」の呪縛を乗り越えなければなりません。従って政権交代を目指す野党が生まれ、政権交代が成された矢先に起きた「政治とカネ」の問題は、日本が国家として乗り越えなければならない「ニッポン維新」の課題なのです。(続く)


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ニッポン維新(73)戦後疑獄史の真相−5

  「中央公論」4月号にオランダ人ジャーナリストのカレル・ヴァン・ウォルフレン氏が「日本政治再生を巡る権力闘争の謎」を書いています。その中で氏は「民主党が行おうとしていることに、一体どのような意義があるかは、明治時代に日本の政治機構がどのように形成されたかを知らずして、理解する事は難しい」と述べています。

 ―戦前の天皇制官僚たちは選挙で選ばれた政治家の力を骨抜きにするため、検察とメディアが二人三脚となって政治家の犯罪行為を探し出し、または架空の事件をでっち上げて官僚制度を維持してきた。それが第二次世界大戦後も引き続き行われており、昨年の政権交代で日本に真の民主主義が実現するかどうかの重大な時期に、鳩山、小沢両氏に対してそれが再現されている―
 ウォルフレン氏はそう述べて、これで鳩山政権が退陣するような事になれば「日本の不幸」だと結論づけています。

 ウォルフレン氏は私と同じ視線で日本政治を見ていますが、この様な見方をする日本人ジャーナリストが周りにいないのが「日本の不幸」だと私は思っています。日本人は自分の国の歴史も知らずに政治を論評していると外国人から指摘されているのです。私が現在「戦後疑獄史」を連載しているのはそのためです。メディアを使って国民を洗脳する官僚支配の手口を日本人に知って貰いたいからです。

 ところで1976年に田中角栄氏を逮捕して「最強の捜査機関」と国民に思わせた検察は、実は疑獄捜査が不能の状態にまで追い込まれますが、1985年に田中角栄氏が病に倒れて政治力を失うと再び立ち上がります。1986年に撚糸工連事件を摘発し、国会で議員が行う質問を収賄の要件と認知させる事に成功しました。その事によって検察は民主主義の根幹を揺るがす権限を得たのです。そしてその2年後、朝日新聞が騒ぎ立てたリクルート疑惑を事件化する事によって、検察は政権を退陣に追い込む事に成功しました。

 リクルート事件はロッキード事件と並び戦後を代表する疑獄事件と言われます。それほど日本の政界に打撃を与えました。しかし昨年出版された「リクルート事件 江副浩正の真実」を読むと、事件は検察による「でっち上げ」であった事が分かります。不幸なことに「でっち上げ」によって日本の政治は大打撃を受けたのです。

 新興企業のリクルートが多くの政治家に献金をし、未公開株を政界、官界、財界、マスコミ界などにばらまいていたことは事実です。しかしそれは違法ではなく、事件になる行為ではありません。成功者が周囲に大盤振る舞いをした話です。特に政界はロッキード事件の影響で大企業が政治献金に応じなくなった事から、新興企業のリクルートは大企業に代わる有り難い存在でした。

 ところがおそらく未公開株を配った先の名簿を手に入れていた朝日新聞社は、配られた政治家の氏名を少しずつ小出しにする事で、妬ましく思う庶民の感情に火を付けます。「濡れ手で粟」という言葉が繰り返し報道されました。すると検察は「国民が怒っているから何もしない訳にはいかない」という「怖ろしい理由」で、犯罪ではない事柄を事件化して行ったのです。その突破口が江副浩正氏の供述調書でした。

 検事に脅された江副氏は贈賄側としてウソの調書に署名させられます。それが真藤恒NTT社長、加藤孝労働事務次官、高石邦男文部事務次官、藤波孝生官房長官、池田克也衆議院議員らの逮捕、起訴につながります。そして事件の直撃を受けた竹下政権は1年余りで退陣に追い込まれました。江副氏は裁判では全面否認に転じて戦います。そのために裁判は13年を越える長期となりました。結果は執行猶予付きの有罪判決で、本人は事実上の無罪判決と受け止めています。

 本人はそれで満足かも知れませんが、しかしこの事件の代償はとてつもなく大きいものでした。リクルート事件の渦中に成立した消費税は国民にマイナスイメージを持たれました。将来の少子高齢化に備えるための税制が国民に理解しがたい税制となったのです。さらに竹下―安倍―藤波とつなぐ筈の政権交代に狂いが出ました。自民党単独政権時代にはあらかじめ総理候補を決める事で本人に自覚を促し、政策や政治手法を勉強させる時間を与えました。現在の中国が5年前には次のリーダーの名前を指名しておくのと同じで、決して促成栽培はやらない仕組みです。

 しかしその仕組みが全て崩れ、日本政治はあてどのない漂流を始めました。総理になるつもりも資質もない政治家が次々に総理になっては消えていく政治が始まりました。国際社会が冷戦体制の終焉という大きな地殻変動に立ち向かっている時、日本だけは検察とメディアの二人三脚による疑獄捜査が政治を解体させて「失われた時代」を迎えさせたのです。(続く)


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ニッポン維新(72)戦後疑獄史の真相−4

 ロッキード事件で田中角栄氏が受託収賄罪に問われたのは、ロッキード社幹部に対する嘱託尋問調書が証拠として採用されたためです。調書は贈賄側であるロッキード社を刑事免責した上で作成されました。事件からおよそ20年後の1995年、日本の最高裁判所は嘱託尋問調書の証拠能力を否定する判決を下しました。しかし既にロッキード事件は「総理大臣の犯罪」として国民の脳裏に刷り込まれています。そしてそれを摘発した検察は「正義」の味方として賞賛されました。それが日本の政治を歪めたとは誰も考えていません。この不幸が日本の政治にまとわりついています。

 国民の賞賛とは裏腹に、ロッキード捜査は実は検察内部にも大きな傷跡を残しました。東京地検特捜部は疑獄事件を摘発できない状態に追い込まれました。それが久々に政治家の贈収賄事件に取り組んだのは、ロッキード事件から10年も経った1986年です。自民党と民社党の代議士が受託収賄罪で在宅起訴された撚糸工連事件と言います。

 事件は構造不況にさらされた繊維業界で起こりました。繊維産業は明治以来日本経済を支える基幹産業でしたが、70年代の日米繊維摩擦で日本はアメリカの要求を飲まざるを得ない立場に追い込まれました。沖縄返還を悲願とする佐藤栄作政権はその見返りとして繊維製品の対米輸出を自主規制し、一方ではアメリカから航空機の購入を約束せざるを得なかったのです。航空機購入の約束が後のロッキード事件につながります。

 日米繊維摩擦を解決したのは当時の田中角栄通産大臣です。アメリカの要求をはねつける事が難しいと判断した田中氏は繊維業界に構造転換を促します。繊維から他の業種に転換することを国が支援する仕組みを作りました。その中に過剰設備を廃棄するため不必要な機械を国が買い上げる「設備共同廃棄事業」がありました。これを悪用したのが日本撚糸工業組合連合会の幹部たちです

 他の企業の中古機械に偽装工作を施して共同廃棄事業の対象と偽り、国から金をだまし取ったり、中小企業事業団から低金利の融資を受けていました。そうして手に入れた金を株取引などに流用した事から、当初は詐欺と業務上横領の容疑で撚糸工連幹部が逮捕されます。ところが撚糸工連幹部が通産省の役人をたびたび接待している事実が判明し、事件は贈収賄事件に発展します。

 官僚の贈収賄事件の次に捜査は政界にも及びました。民社党の横手文雄衆議院議員が国会で撚糸工連に有利な質問をした謝礼に200万円を受け取ったとして、自民党の稲村左近四郎衆議院議員は横手議員に質問をするよう仲介する一方、通産省幹部に対して撚糸工連に有利な答弁をするよう圧力を掛けた謝礼に500万円を受け取ったとして在宅起訴されました。一審の東京地裁は稲村氏に懲役2年6ヶ月、執行猶予3年、追徴金500万円、横手氏には懲役2年、執行猶予3年、追徴金200万円の有罪判決を言い渡しました。

 稲村氏はいったん控訴したものの、その後控訴を取り下げて有罪が確定し、政界引退を表明しました。しかし横手氏はあくまでも無罪を主張し続けました。1992年の東京高裁判決は横手氏の主張を認め逆転無罪の判決となりました。現金の授受に物的証拠はなく、撚糸工連幹部らの供述は執行猶予を得たいがために検察官に迎合した可能性があると言う理由です。この逆転無罪判決を当時のメディアは「勇気ある判決」として喝采しました。今のメディアとは比較にならない「勇気ある報道」です。

 何故ならこの事件には現金の授受の物証問題以外にも、民主主義政治にとって重要な論点がありました。それは国会議員の職務権限の問題です。検察は国会質問で撚糸工連に有利な質問をしたことを収賄の要件としました。しかし横手氏はそもそもゼンセン同盟の組合出身で、繊維業界から押し出されて国会議員になった人物です。その人物が業界に有利な質問をすることは当たり前の話です。検察の論理が認められれば、国会議員が支持者から政治献金を受け、支持者に有利な質問をすれば全て贈収賄に問われる事になります。これは民主主義政治の根幹を揺るがしかねない問題です。

 そもそも民主主義は官僚が政策を作るのではなく、様々な立場の国民が自分たちの要求を主張して貰うために議員を選び、その議員達が国会で要求を出し合い、お互いに妥協点を探りながら政策を決めていくシステムです。議員が支持者から票と資金を提供して貰い、支持者に利益誘導をする事が政治の根本なのです。ところが検察はそのシステムを罪に問おうとしていました。

 事件から10年後の1996年、最高裁は二審の判決を差し戻し、再び横手氏に有罪判決が下りました。ところがその時にはどこからも議員の職務権限に関する検察の判断に疑問を差し挟む声はあがりませんでした。1990年代初頭の政治改革論議の中から政党助成法が成立し、企業・団体献金を制限する見返りに税金の中から政党に資金が交付される仕組みが出来たからだと思います。しかし民主主義国家で政治資金を税金に頼る国が世界中にどれほどあるでしょうか。「政治とカネ」の問題を過大に考えるあまり民主主義の本来の姿から離れていってしまっているのが日本の政治制度です。その距離を大きくしているのが検察の疑獄事件捜査なのです。(続く)


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ニッポン維新(71)戦後疑獄史の真相−3

 1976年2月5日、アメリカからロッキード事件の一報が飛び込んできた時、事件の主役は児玉誉士夫でした。メディアはそれまで記事にする事がタブーだった右翼民族派の領袖がなぜアメリカ軍需産業の手先となったのかを追及し始めました。

 それから2ヶ月あまり、日本の新聞とテレビは全紙、全放送局とも毎日が特ダネのオンパレードでした。占領下の日本で何が起きていたのか。日米をつなぐ闇の人脈とは何か。GHQの情報統制によって隠されていた戦後日本の真相にメディアは立ち向かっていきました。

 当局の発表ではなく、新聞社とテレビ局が独自に取材したニュースですから、全てがスクープです。毎日のニュースを見るのがこれほど楽しみだった事はありません。闇に閉じこめられていた戦後史の真相が次第に明かされていきました。追放されていたはずの戦犯達が秘かに反共人脈として復活し、戦後日本の権力構造に組み込まれていく様が分かりました。私も米国諜報機関員や戦前日本の特務機関員などを取材して児玉の地下水脈に迫りました。

 ところが日本の検察にアメリカ側資料が渡った4月中旬、取材の様相が一変します。東京地検の捜査に取材が集中することになり、戦後史の発掘作業は中途で終わりました。私も東京地検担当に配置換えされました。事件はロッキード社の対潜哨戒機P3Cオライオンと民間航空機トライスターの売り込み工作で日本の政界に賄賂が流れたというものです。しかし事件発覚と同時に児玉誉士夫が入院し、児玉から流れた金の捜査は難航が予想されました。

 結局、防衛庁が税金で購入したP3Cの購入にまつわる疑惑は全く解明されませんでした。入院した児玉がそのまま死んだため(薬をもられたと言う説もあります)、児玉ルートは永久に消されました。検察が摘発したのは全日空が購入した民間航空機トライスターの疑惑だけで、商社丸紅と全日空の幹部が贈賄側として逮捕され、そこから運輸族の議員が収賄側として逮捕されると予想されました。

 ところが東京地検特捜部は誰もが予想しない頂上作戦に出ました。3年前まで最高権力者の地位にいた田中角栄前総理を突然逮捕したのです。この逮捕に日本中が驚き、ロッキード事件は「反共主義者」児玉の事件から「政治とカネ」の「総理の犯罪」にすり替わっていきました。児玉ルートにいたと思われる岸信介や中曽根康弘は訴追されず、運輸族議員佐藤孝行と田中角栄が逮捕されただけで事件は終息しました。ただし東京地検は捜査終了宣言を出しませんでした。「中締め」と言ったまま捜査を終えました。

 ロッキード事件の全容を解明していない負い目から「中締め」としか言えなかったと思います。取材していた私も「なぜこれで終わりなの?」と思いました。検事たちにも同様の思いがあったようで、上層部に対する不満が渦巻いたと聞いています。その後司法修習生の中から検事を希望する者が減ったとも言われました。

 ロッキード事件から2年後の1978年、全く同じタイプの事件がアメリカから飛び込みました。「グラマン事件」と言います。アメリカの証券取引委員会がグラマン社の早期警戒機E2Cの売り込みのため日商岩井を経由して岸信介、福田赳夫、中曽根康弘、松野頼三らに賄賂が流れた事を暴露しました。この時は日商岩井の常務が飛び降り自殺をした事で、東京地検は一人も政治家を逮捕しませんでした。

 ベトナム戦争の敗戦を教訓に、アメリカは軍需産業と反共人脈との関係を暴露し、反共主義勢力との腐れ縁を断ち切ろうとしましたが、日本ではそれが「政治とカネ」の問題に摩り替わり、「田中的金権政治」批判の大合唱になりました。グラマン事件の時、検察幹部は国会答弁で「巨悪は眠らせない」と言いましたが、言葉とは裏腹に検察は「巨悪を眠らせたまま」その後政治家を逮捕する事ができなくなりました。ところが奇妙な事にメディアは東京地検を「最強の捜査機関」と賞賛し、国民は何の疑問もなく検察の「正義」を信ずるようになりました。(続く)


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ニッポン維新(70)戦後疑獄史の真相−2
           
 
国民はメディアによってロッキード事件を「総理大臣の犯罪」と思い込まされています。しかし事件の震源地はアメリカで、しかも事件の発端から政治的謀略の臭いがします。なぜ軍需産業の秘密工作がこの時期にアメリカ議会で暴露されたのか、そこを探る必要があります。

 田中逮捕後に日本では、「田中元総理は中東の石油依存から脱するため独自の資源外交を行い、それが石油メジャーの怒りを買い、事件が仕組まれた」との説が流されました。しかしロッキード社の秘密工作は西ドイツ、イタリア、オランダ、ベルギー、メキシコなど世界各国を対象に行われ、それもアメリカ議会で暴露されていますから、田中元総理がターゲットだったと考えるのは誤りです。「田中はアメリカの虎の尾を踏んだ」という説はあとづけの論理で、事件の本質を見えなくする「目くらまし」だと私は思います。

 事件を素直に見ればアメリカ議会が最初に暴露したのは軍需産業ロッキード社の秘密代理人が世界中に存在するという事実です。従って秘密代理人に注目する必要があります。上院の多国籍企業小委員会が政治的意図を持って事件を暴露したとすれば、軍需産業と世界中にいる秘密代理人の関係を好ましく思っていなかった事になります。

 日本の秘密代理人は右翼民族派の領袖児玉誉士夫でした。当初はなぜ民族主義者が外国企業の手先になったのかと疑問を持たれましたが、児玉は民族主義者である前に反共産主義者です。日本がアメリカと日米安保条約を締結した1960年、安保反対を叫ぶデモ隊を児玉の支配下にある暴力団が襲撃しました。児玉は日米軍事同盟の守護神です。従って彼がアメリカ軍需産業の秘密代理人になる事は決しておかしな話でありません。

 アメリカ議会では西ドイツの国防大臣、オランダ女王の夫君、イタリアの大統領などがロッキード社から工作資金を受け取っている事実が暴露されましたが、これらの人々もいずれも「親米反共」の立場です。そう考えるとアメリカ議会上院の多国籍企業小委員会はアメリカの軍需産業と世界の反共人脈の好ましくない関係を暴露した事になります。

 1976年という時期のアメリカ政治がどのような状況に置かれていたかが問題です。1970年に誕生したニクソン政権の最重要課題は泥沼化したベトナム戦争に終止符を打つ事でした。ベトナム戦争を終わらせるにはベトコンを支援している中国、ソ連と話し合う必要があります。

 「共産主義と戦う事は正義だ」と信じて始めた戦争ですが、アメリカの痛手は想像を絶するものでした。財政は破綻状態となり、反米デモが世界中に吹き荒れ、国民は深刻な政治不信に陥っていました。核競争ではソ連に抜かれ、中国も核配備を完成させていました。そこでニクソン大統領は大胆な手を打ちます。戦後のドル基軸体制の根本であった金とドルとの交換を停止する一方、中ソ対立を利用して電撃的に中国と手を結びます。いわゆる「ニクソン・ショック」です。そうして73年にやっと和平協定が結ばれベトナムから米軍が撤退しました。アメリカは初めて敗戦を経験しました。

 アメリカ国民は敗戦に打ちひしがれ、それまで信じてきた「反共主義」がもろくも崩れていくのを感じました。何を信じて良いか分からない状態です。するとそこにまた衝撃的な事件が起きました。74年に大統領が盗聴事件に関与していた事実が明るみに出たのです。このウォーターゲート事件で建国以来初めて大統領が辞任に追い込まれます。フォード副大統領が昇格しますがアメリカにとって前代未聞の不祥事でした。「反共主義ではなく民主主義を強くしなければアメリカの再生はない」。そうした思いがアメリカ中を覆い、政治改革が叫ばれました。

 1976年はまさにそうした状況の真っ只中でした。フォード政権下で民主党が攻勢を強めていました。多国籍企業小委員会のフランク・チャーチ委員長は民主党のやり手です。ですからその委員会が軍需産業と反共人脈の好ましからざる関係を糾弾するのは当然です。アメリカ政治が「反共主義」を脱ぎ捨てるために必要とされた大がかりな「政治ショー」と言えなくもありません。

 そのせいか西ドイツでもオランダでもイタリアでも、名指しをされた政治家は誰一人として刑事訴追を受けませんでした。アメリカ政治に影響されて国民が選んだ自国の政治家を捕まえる事は出来ないと考えたからでしょうか。いずれにしても誰も逮捕されてはおりません。ところが日本だけは前総理が逮捕されて国中が大騒ぎとなりました。(続く)

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ニッポン維新(69)戦後疑獄史の真相−1
           
 
政治家が絡んだ贈収賄事件を疑獄事件と言います。疑獄事件を捜査するのは警察ではなく検察の一部門である特別捜査部、通称「特捜」です。戦後の1947年に東京地検特捜部が設立されたのを皮切りに、57年に大阪、96年には名古屋の各地方検察庁に特捜部が作られました。以来、「特捜」は数々の疑獄事件を手がけています。

 政治家の汚職を摘発する「特捜」は、腐敗した権力に立ち向かう正義の味方としてこれまで新聞やテレビに賞賛されてきました。国民もそれを信じてきたと思います。しかしそれは本当でしょうか。本当に腐敗した政治家が摘発されたのでしょうか。官僚国家の日本では、戦前と同様に力のある政治家を摘発し、政治主導の体制を作らせない目的で捜査が行われてきたのではないでしょうか。政権交代が成された今、国民はメディアの報道に踊らされずに、事件の真の姿を読み解かなければなりません。

 私は戦後最大の疑獄事件とされるロッキード事件を取材しました。田中角栄氏が逮捕された時、東京地検の玄関前でその姿を見送った一人です。取材を通して「特捜」の捜査のやり方に実は疑問を感じていました。しかし当時の新聞とテレビは東京地検特捜部を「最強の捜査機関」と賞賛するばかりで、誰も疑問に耳を傾けてはくれません。「特捜」は正義の味方として国民の脳裏に刷り込まれました。

 ロッキード事件から7年後に私は政治部記者となり、一審で有罪判決を受けた田中角栄氏から直接話を聞く機会を得ました。東京地検と田中角栄氏の両方を取材した記者は日本中で私だけです。さらにその5年後には米国の政治専門チャンネルC−SPANの配給権を得て米国政治を取材する事になりました。ロッキード事件を、逮捕した側、逮捕された側、さらに事件を起こした米国政治の三つの方角から見る事が出来ました。するとそれまで見えなかった事件の輪郭が私の中に浮かび上がってきたのです。そのような目で「特捜」が手がけた他の疑獄事件を見直すと、国民が虚像に踊らされてきた事が分かります。その事をこれから説明します。まずはロッキード事件です。

 ロッキード事件は米国議会で暴露されました。1976年2月4日(米国時間)、米国議会上院の多国籍企業小委員会(チャーチ委員会)で大手航空機メーカーであるロッキード社が航空機を外国に売り込むため秘密代理人を通して外国の政府要人に賄賂をばらまいていた事が暴露されました。暴露された理由はロッキード社の会計事務所が誤って資料を議会に送ったためとされています。なにやら初めから政治的謀略の臭いがする事件です。

 賄賂が渡っていた国は西ドイツ、オランダ、イタリア、ベルギー、メキシコ、ヨルダンなど多数に上りますが、その中に日本もありました。日本の秘密代理人は右翼民族派の領袖で全国の暴力団を配下に置く児玉誉士夫でした。彼は自民党の前身である自由党の結党資金を出した事で政財界にも隠然たる影響力を持っています。しかもその存在はそれまで新聞もテレビも触れることの出来ないタブーでした。なぜ右翼民族派の領袖が米国企業の手先となったのか。事件は日本中の注目を集めました。(続く)

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ニッポン維新(68)龍馬にとっての維新−6

 政権交代を果たした新政権が取り組まなければならないのは既得権益との戦いです。それはどの国でも同じです。しかし日本だけはいささか異なる事情があります。他国で既得権益と言えばそれまで権力を握ってきた政治勢力とその支持者ですが、政権交代のなかった日本には「政官財トライアングル」と呼ばれる支配構造があり、事情は単純ではないのです。

 本来は政治勢力の下にあるべき官僚機構が経済界の許認可権を握り、国家の司令塔として政治勢力の上位に君臨してきたからです。そのため新政権はまずは官僚機構と対峙しなければなりません。官僚をコントロールする作業と既得権益との戦いが同時に絡まり合うのです。また昭和20年から27年までの占領以来、安全保障と経済の両面で日本を牛耳ってきた米国の存在があります。日本は経済面ではどうにか米国と対峙するところまで来ましたが、安全保障面ではまるで操り人形です。従って日本では旧政治勢力との戦いよりも官僚機構と米国との関係をどうするかが焦点となります。

 一世紀以上に渡ってこの国を支配してきた官僚機構をコントロールする事は容易なことではありません。同様に半世紀以上も日本を操ってきた米国と「対等な関係」を築く事も至難の業です。案の定、誕生したばかりの新政権を追いつめてきたのは旧政治勢力ではなく官僚機構と米国でした。前者は東京地検特捜部による「政治とカネ」の捜査で、後者は普天間基地の移設問題で新政権を揺さぶっています。

 そこで新政権にとっての「壁」とも言える官僚機構と米国について論じようと思いますが、この国には官僚機構と米国から流される「ガセ情報」が溢れており、既に国民の間にある種の虚像が出来上がっています。それを一つ一つ剥がしていかなければなりません。私は東京地検担当記者としてロッキード事件を取材し、また冷戦が終わる1990年から10年以上ワシントンに事務所を構えて議会を中心に米国政治を取材してきました、その経験から新聞とテレビの報道がまるで事実とかけ離れていることを痛感しています。国民が信じ込んでいる虚像をどこまで破壊出来るか分かりませんが一応挑戦してみます。

 まず「政治とカネ」の問題です。日本では「政治とカネ」が民主主義の最重要課題のように言われます。こんなに「政治とカネ」で騒ぐ国を私は知りません。どこの国でも国民の最大関心事は経済です。自分の暮らしを良くして欲しいと思って政治を見ています。外交では他国につけ込まれない賢くて強い政治家を求めます。ところがこの国だけは「政治とカネ」がまるで「民主主義の存亡に関わる問題」です。なぜでしょうか。

 前にも紹介しましたが、戦前の天皇制官僚機構が政治家の力を削ぐために使ったのが「政治とカネ」の問題です。陸奥宗光の影響を受けた自由民権運動の政治家星亨と原敬は共に「利益誘導政治家」、「金権政治家」のレッテルを貼られ、義憤に駆られた国民に暗殺されました。レッテルを貼ったのは政党政治の台頭を怖れた官僚です。何故「利益誘導」「金権政治」のレッテルを貼られたか。二人とも地方に鉄道を敷設する事に力を入れたからです。

 昔から官僚は経済の「成長」に関心があり、政治家は「分配」に関心があると言われます。官僚は「緊縮財政」を主張し、政治家は「積極財政」を主張する傾向があります。勿論節度を逸した「バラマキ」は国家を破綻させますが、政治の本質はいかに富を効果的に分配するかです。政治家の関心が「分配」に向かうのは当然の傾向です。そして「利益誘導」こそ民主主義政治の基本です。

 国民は自分たちの暮らしを良くして欲しいと思って代表を国会に送り出します。ですから代表たる国会議員が自分の支持者の利益になるよう仕事をするのは当然です。都会選出の議員は都市生活者のために、地方選出の議員は地方の利益のために、みんな支持者の利益のために国会で頑張ります。議論を尽くした結果、妥協が図られ、それぞれが少しずつ譲歩するか、そうでなければ多数決で決着します。これが民主政治のプロセスです。

 しかし戦前の天皇制官僚機構は力のある政治家を「利益誘導政治家」、「金権政治家」と批判して国民の義憤を煽り、国民はその扇動に乗って政治家を抹殺しました。「天皇主権」の国家では天皇の僕である官僚が国家の運営に当たり、国民の人気を得て官僚以上の仕事をする政治家を許さないからです。ところが「天皇主権」が終わり、「国民主権」の時代になっても同じ論理で政治家を抹殺してきたのが日本の検察官僚です。

 「金権」や「利益誘導」を新聞やテレビに糾弾させ、「政治の巨悪」を逮捕することが正義だと国民に刷り込んできました。政治家は国民の代表です。その政治家が国民の役に立たなければ国民が辞めさせます。国民の代表を抹殺する以上、どれほど国家に損害を与えたかを十分に検証しなければなりません。しかし数々の疑獄事件を見てきましたが、検察のやっている事は全く戦前と同じです。

 官僚主導を覆す力のある政治家だけが狙われてきました。検察捜査の異常さには実は政治の世界は皆気付いています。しかし検察とマスコミは敵に回さない方が安全だと沈黙してきました。今回の政権交代が官僚主導政治からの脱却を目指すのであれば、国民はこれまでのものの見方や価値観を変え、民主主義の原理に基づいた政治の在り方を追及すべきです。「政治とカネ」の問題でどれほど日本の政治がねじ曲げられ、戦後の疑獄事件の摘発がいかに民主主義を踏みにじるものであったかを次回からご説明します。(続く)


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ニッポン維新(67)龍馬にとっての維新−5

 
龍馬の思想を継承したと思われる明治期の思想家に中江兆民がいます。フランスの思想家ジャン・ジャック・ルソーを日本に紹介し、「東洋のルソー」として有名ですが、彼も若い頃坂本龍馬と接点がありました。

 兆民は土佐藩の足軽の子に生まれました。藩の学校に入門して蘭学やフランス語などを学び、慶応元年に留学生として長崎を訪れます。そこで海援隊を組織していた坂本龍馬と出会い、「万民平等」の龍馬の思想に影響されました。龍馬に頼まれて煙草を買いに行ったエピソードが残っています。「容易に他人に使われたりしない自分だが、龍馬さんから頼まれた時にはまめまめしく使われた」と兆民は語っています。19歳の兆民にとって龍馬は尊敬すべき郷土の先輩で、世界に目を見開かせてくれた存在でした。

 明治維新後、兆民は東京に出て勉学にいそしみ、明治4年岩倉使節団が海外留学生を募集した時、彼は大久保利通に直訴して留学生となります。アメリカを経てフランスに渡り、パリとリヨンに滞在しますが、そこでルソー、モンテスキュー、ボルテールなどのフランス啓蒙思想を学びました。

 明治7年、フランスから帰国した兆民は東京に「仏学塾」を開校し、ルソーの「社会契約論」の部分訳である「民約論」をテキストにして啓蒙思想の普及につとめました。フランス型自由主義と民主主義思想の講義は、書き写しによって自由民権派の活動家のバイブルとなり、当時高まりつつあった自由民権運動の理論的基礎となりました。

 一時は元老院副議長の後藤象二郎によって書記官に任命されますが、まもなく官職を辞し、明治14年にはパリで知り合った西園寺公望に頼まれて「東洋自由新聞」の主筆となりました。その「社説」で兆民は明治政府の専制を批判し、国会開設と憲法制定を要求します。彼は日本の天皇制が絶対王政に近づきつつある事を批判し、イギリス型の立憲君主制を唱えます。天皇を君主として存在はさせるが、主権はあくまでも人民にあるという主張です。

 「もし天皇が政治的権限を持つのであれば、その責任は天皇が負わねばならず、天皇は人民から権限の委譲を受けている訳だから、人民は天皇の政治責任を追及する権利を持つ。従って人民は天皇を権力の座から追放する権利を持つ。しかし天皇に政治的権限はなく、全ての政治責任は内閣にあるので、内閣は天皇ではなく人民に責任を負う」。これが兆民の展開した人民主権の論理でした。

 華族である西園寺の「東洋自由新聞」が自由民権運動に組する事を明治政府が認める筈はありません。新聞は間もなく廃刊に追い込まれました。その後兆民は日本初の政党である自由党の結成に関わりながら、大阪で創刊された「東雲新聞」の主筆となり、再びジャーナリストとして新聞に主張を展開します。

 自由民権運動の盛り上がりを怖れた明治政府は国民に国会開設を約束し、国民の不満をそらしながら、内実は官僚に都合の良い憲法と国会を作ろうとしていました。そこで兆民は新聞紙上に「国会論」を連載します。まず選挙は身分性別に関係なく誰でもが参加出来る完全な普通選挙でなければならないと主張します。また国会は国民の意思を代表する所で、国民の権利を拡張する所であるから、天皇への上奏権、議員の発言の自由、不逮捕特権、立法権、予算審議権などを持たなければならないと力説しました。これらの権限がない国会は「不具妖怪の国会である」と言い切っています。

 ところが国会開設の前年に発布された大日本帝国憲法は、国民が作る民定憲法ではなく天皇が作る欽定憲法でした。また黒田清隆内閣総理大臣は「超然主義」を唱え、政府は国会が何を決めても「超然」として無視すると宣言しました。こうした中、明治23年7月に第一回衆議院選挙が行われ、兆民は選挙に立候補します。選挙権は15円以上の納税をした25歳以上の男子だけに与えられ、国民の1%しか投票できませんでしたが、300議席中173議席を民権派が占めました。兆民も衆議院議員となり、藩閥政府側は過半数を得ることが出来ませんでした。

 従って政府の予算案が通りません。すると政府は「憲法の大義」を楯に「政府の同意なしに国会は予算修正出来ない」と予算案を押し切ろうとします。その時にかつての民権派の同士であった逓信大臣後藤象二郎と農商務大臣陸奥宗光は民権派議員の切り崩し役を任じられ、土佐派議員20名が切り崩されて政府案の賛成に回りました。これに憤慨した兆民は直ちに衆議院に辞表をたたきつけ議員を辞職しました。

 議員を辞めてからの兆民は北海道へ渡り、材木業や鉄道事業に手を出しますが、いずれもうまくはいきませんでした。そして明治34年、55歳で兆民は病死します。後に大逆事件で処刑された幸徳秋水は彼の弟子でした。兆民の思想は日本の反体制運動家に引き継がれる事になったのです。兆民の最期は悲劇的ですが、日本の国会もまた不幸なスタートを切り、苦難の道を歩むことになりました。(続く)


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ニッポン維新(66)龍馬にとっての維新−4

 陸奥宗光は日清戦争時の外務大臣で、外国との不平等条約の改正に辣腕を振るい「カミソリ大臣」と言われました。元は紀州藩の脱藩浪人です。坂本龍馬と知り合い、龍馬に能力を認められて勝海舟が作った神戸海軍総練所に入りました。その後も龍馬の海援隊に加わるなど終始龍馬と行動を共にします。陸奥は龍馬のことを「自由自在なる奔馬」として高く評価し尊敬していましたから、龍馬が暗殺された時には暗殺犯と思い込んだ紀州藩士を襲撃する事件を起こしています。

 従って龍馬暗殺の翌年に出版された海援隊の「藩論」は陸奥自身の政治思想だと思います。それは薩長藩閥政府が目指した中央集権官僚体制とは異なる議会政治の思想でした。新政府が誕生するとすぐに陸奥は伊藤博文や井上馨らと共に外国事務局御用掛に任命されます。仕事は幕府を倒した尊皇攘夷派に攘夷を捨てさせる事でした。ところが陸奥は3ヶ月ほどで政府に辞表を提出します。龍馬や吉田松陰が唱えた「万民平等」の思想とは異なり、薩長藩閥による縁故人事が始まったからです。これでは徳川専制政治と変わらないではないか。その反発が陸奥にはありました。

 しかし辞表は受理されず、しばらく会計官権判事や兵庫県知事として行政官の仕事をします。しかし明治2年に廃藩置県の構想を具申して受け入れられないと、陸奥は官僚生活に見切りをつけ故郷の紀州藩に戻りました。そこで藩政改革に取り組んでいた津田出と組んで陸奥は大胆な国造りに取り組みます。士族を廃して徴兵制を敷き、薩長に対抗できる近代的軍隊を創設、さらに天皇のためではない経世済民の政治を行おうとしたのです。

 しかし明治4年の廃藩置県によって紀州藩の近代的軍隊は薩長の中央政府の統制下に置かれました。再び挫折が陸奥を襲います。政府に戻って神奈川県令や大蔵省地租改正局長などを歴任しますが、いよいよ薩長藩閥の専制政治に反発し、自由民権運動と連携を強めていきます。明治10年の西南戦争の際、立志社の林有造や大江卓らが政府転覆を謀った事件で、連絡を取り合っていた陸奥も禁固5年の刑を受け投獄されました。

 獄中で陸奥は英語の勉強に打ち込み、英国の哲学者ベンサムの著作の翻訳に取り組みました。出獄後は長年の友人である伊藤博文の勧めでヨーロッパに留学し、民主政治を猛勉強します。帰国後、伊藤の引きで明治政府に入り、駐米公使や駐メキシコ公使、農商務大臣、そして外務大臣などを歴任しました。その陸奥が育て上げたのが政党政治を日本に確立するために命をかけた星亨と原敬でした。

 星は江戸の左官屋の息子ですが幕末に英語を学び英語教師になります。維新後、陸奥の推挙で明治政府に入りますが、その後英国に留学して法律を学び、日本初の法廷弁護士になりました。さらに星は日本初の政党である自由党に参加して衆議院議長となり、藩閥政治を批判し、積極財政で地方への利益誘導を行い、民衆の支持を集めました。すると官僚から「金権政治家」のレッテルを貼られます。そのため義憤に駆られた剣術家に刺殺されました。陸奥とは終生親交を重ねた間柄でした。

 星の後継者と言えるのが原敬です。原は盛岡藩の上級の武士の家に生まれますが、維新後に平民籍となりました。子供の頃に戊辰戦争を経験しており薩長藩閥政治には批判的だったと思います。原も外務省に勤務しているとき陸奥の引きで外務次官に抜擢されました。陸奥が病気で外務大臣を辞任すると原も外務省を辞め、官僚政治の限界を感じた伊藤博文の立憲政友会に参加します。星亨の後任として入閣し、次第に政治力を身につけて官僚政治に対抗しました。大正7年、遂に官僚出身ではなく初の政治家出身の総理として原が内閣総理大臣となり、「平民宰相」と呼ばれました。

 原も卓抜した政治力で官僚政治と対抗しました。すると守勢に立った官僚から「金権政治家」のレッテルを貼られ、星と同様に義憤を感じた国民によって刺殺されます。軌道に乗りかけた政党政治は力のある政治家を失い不幸な時代を迎えます。陸奥宗光は明治政府の外務大臣として日本外交の基礎を作りましたが、その胸の中には龍馬の思想が生き続けていたと思います。それが政党政治の基礎を作ろうとした二人の政治家に引き継がれましたが、二人とも「金権政治」のレッテルを貼られて凶刃に倒れました。

 平成の世になって初めて国民の手で権力が誕生し、本格的な政党政治が始まろうとしましたが、再び「政治とカネ」の問題で検察官僚が政治家を追いつめています。龍馬の理想はいつになれば実現する事になるのでしょうか。(続く)



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ニッポン維新(65)龍馬にとっての維新−3

 残念な事ですが、龍馬の政治思想が維新政府に採用される事はありませんでした。明治維新によって万民が平等になり、万民が政治に参画する機会を与えられる事はなかったのです。明治天皇の「五箇条のご誓文」の冒頭にある「広く会議を興し・・・」の「会議」は各藩の大名や藩士などによる「会議」で、決して万民のものではありませんでした。

 明治2年の「版籍奉還」で、明治政府は大名の土地と領民を天皇に返還させますが、それに伴い大名や公家は「華族」となり、藩に所属していた侍は「士族」と呼ばれるようになります。つまり徳川時代の「士農工商」はなくなりましたが、代わりに「皇族、華族、士族、平民」という新たな階級が生まれました。

 従って明治2年に「立法府」として作られた「公儀所」や「集議院」も、メンバーは藩から選ばれた者たちで、龍馬が構想した「議会」とはほど遠いものでした。結局、明治政府は徳川時代の大名から権力と土地を没収し、古来から日本にある太政官制を下敷きに官僚制度を整備して、天皇を頂点とする中央集権官僚国家を作り上げたのです。

 官僚になったのはほとんど華族か士族です。しかも地方を監督する大蔵省と鉄道や鉱山などの官営事業を推進する工部省を握ったのは長州閥という具合に、薩長藩閥が官僚機構の中枢を占めたのです。そして官僚が国民に絶対的優位性を保つため「官吏侮辱罪」や「職務執行妨害罪」が早々に作られました。「官尊民卑」が始まります。

 徳川幕府の封建的専制に代わる新たな時代は、龍馬が考えた「万民平等社会」とは全く逆の絶対君主制そのものです。期待を裏切られた農民たちによる一揆が明治初年から頻発しました。明治6年には内乱に近い大規模な一揆に発展します。同時に支配の側からこぼれ落ちた士族たちの不満も大きくなります。これらの反政府的動きを押さえ込むため、大久保利通は内務省を設置して中央集権体制をさらに強化しました。

 内務省は大蔵省、司法省、工部省からそれぞれが持つ権限を引き抜く形で作られました。地方、警察、殖産興業などの分野が内務省の所管になったのです。これによって明治政府の権力は内務卿である大久保一人の手に握られます。当然ながら大久保の専制支配に対する反発が生まれました。それが西郷隆盛を士族の反乱に、板垣退助や後藤象二郎を自由民権運動に向かわせます。

 自由民権運動は天皇制中央集権国家に対し「民選議院の設立」、すなわち国民に選ばれる国会の開設を要求しました。ここに龍馬の思想が復活します。運動の中心となったのは明治7年に設立された立志社です。立志社の最重点目標は国会の開設ですが、板垣退助に付いて運動に参加した植木枝盛は、「人民主権、連邦制(地方主権)、人権の保障」の三点を骨子とする憲法草案を作成します。欧米に引けを取らない民主主義の思想が当時の日本にもあった事が分かります。

 明治10年、西郷が決起した西南戦争が立志社を揺さぶります。西郷に組すべきと主張する武闘派と言論で運動すべきと主張する言論派に二分されました。最後は言論派の主張が統一見解となりますが、この時武闘派と連絡を取り合い政府転覆の計画に加担したのが、海援隊で坂本龍馬に可愛がられていた陸奥宗光でした。(続く)

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ニッポン維新(64)龍馬にとっての維新−2

 坂本龍馬の思想に影響を与えたのは勝海舟です。勝は咸臨丸で渡ったアメリカについて龍馬にこんな話をしています。アメリカの王(大統領)は札入れ(選挙)で選ばれ、期限が来れば普通の人に戻る(つまり世襲ではない)。その娘も普通の人と結婚する。そして一神教であるキリスト教が影響力を持っている。


 身分制と世襲によって固定された社会ではなく、選挙によって権力者を選ぶ社会では、社会全体を支配する神の存在が必要になると勝は考えたのでしょうか、一神教の存在に言及しています。勝も坂本も徳川幕府の世襲制度を憎悪しておりましたから、札入れ(選挙)で権力を選ぶ制度には賛成です。しかし一神教をどうするか。徳川幕府はキリスト教を禁じてきました。そこで考えられたのが天皇です。天皇にその役割を求めようと考えました。それが龍馬の「大政奉還」論の基礎にあると思います。

 しかしそれは政治の上位に天皇を置く事ではありません。あくまでも国民の選挙によって権力を選ぶ仕組みを上位に置き、それを保障する存在として天皇が考えられたと思います。因みに龍馬は「キリスト教を政府が禁じてはいけないが、この国古来の仏教を見捨てると国が滅ぶ」と語っています。決して一神教を是としてはおりません。

 ところが後に明治政府は天皇を絶対的な存在に祭り上げ、神道が一神教の様相を帯びました。それが「廃仏毀釈」につながります。古来から八百万(やおよろず)の神々を祀ってきた日本なのに、明治政府は仏教を弾圧、貴重な日本文化を破壊しました。龍馬が維新後にも活躍していたら「廃仏毀釈」も無かったでしょうし、日本の天皇制と政治の関わりは全く別のものになったと思います。

 龍馬は徳川慶喜が「大政奉還」を受け入れた直後に「新政府綱領八策」を書き、また新政府の人事案を作りました。天皇に代わって政治を行う「関白」に公家の三条実美、その下の「内大臣」に徳川慶喜、天皇に政務を上奏する「議奏」に幕末の名君と言われた松平春嶽、山内容堂、伊達宗城と公家の有栖川宮、仁和寺宮、山階宮を充て、政治の実務を行う「参議」には公家から岩倉具視、討幕派の家臣から西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、後藤象二郎ら、さらに「富国強兵」を説く学者の横井小楠もいれて14人を配置しました。まさに公武合体によるドリームチームです。

 一方、徳川幕府の側では幕府の生き残り戦略が模索されていました。そもそも「大政奉還」を受け入れた真意は、長い間政治から離れていた朝廷に政治を執り行う能力があるとは思えず、政権を返上しても朝廷は必ず徳川家の政治力を必要とするという認識があります。

 オランダ留学で法学や経済学を学び、徳川慶喜の政治顧問を務めていた西周(あまね)は、行政と立法とを分立し、イギリス議会を真似た二院制の議会を導入しようとしました。藩主クラスで構成される上院と藩士クラスで構成される下院とを作り、上院議長に徳川慶喜を就任させれば、政権を朝廷に返上しても、朝廷の権力を棚上げできると考えたのです。この構想があるため慶喜は「大政奉還」を決断したと言われています。

 この構想と龍馬の考えは似ているようで違います。こちらはあくまでも徳川体制を残しながら政治改革を行い、町人や農民を政治に参加させようとはしていません。しかし龍馬は朝廷と徳川の挙国一致で行政府を作りますが、立法府はあらゆる階層に開かれた選挙で人材を選ぼうとしています。

 結局、西周が考えた議会政治も龍馬が考えた新政府の構想も実現する事はありませんでした。龍馬は徳川慶喜が「大政奉還」を受け入れた1ヶ月後に京都の滞在先で暗殺され、西周の構想も戊辰戦争が起きて日の目を見る事はありませんでした。

 明治元年に明治政府の基本方針として天皇が発した「五箇条のご誓文」は、第一条に「広く会議を興し万機公論に決すべし」とあり、内容が坂本龍馬の「船中八策」に似ている事から、龍馬が影響していると見られがちですが、全く違います。ここで述べられた「会議」とは「封建諸侯の会議」を意味しており、西周が考えた議会に近いものです。こうして龍馬の政治思想はいったん維新の舞台から消え、後に起こる自由民権運動を待つ事になるのです。(続く)


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ニッポン維新(63)龍馬にとっての維新−1

 来年のNHK大河ドラマは坂本龍馬が主人公だそうです。龍馬に国民の注目が集まると思いますが、ドラマが龍馬の構想した維新後の政治体制にどこまで触れるか分かりません。司馬遼太郎の代表作である「竜馬がゆく」でも触れられてはおりません。これまで紹介されてきた龍馬像にはなぜかその部分の説明が抜けているのです。しかし龍馬の偉大さは維新後の国家体制を構想したところにあります。そこで今回はそれをまとめてみます。


 坂本龍馬は薩摩と長州を説得して「薩長同盟」を結ばせた事で有名です。それが徳川幕府を倒す原動力になりました。そこから維新を実現させた最大の功労者と言われます。しかし龍馬と薩長との間には政権交代を巡って考え方の違いがありました。

  前にも述べたように龍馬は平和的政権交代論者です。幕府が朝廷に大政を奉還し、新政府は幕府側と薩長側の双方から人材を登用して、両者が協力して近代国家を建設すべきだと考えていました。武力倒幕には欧米列強に付け入る隙を与えるとして反対でした。慶応3年6月、龍馬は「大政奉還」に共鳴した土佐藩の後藤象二郎と共に長崎から船で上京します。その船中で口頭で後藤に示した新国家構想が「船中八策」です。

  そこではまず政権を朝廷に返し、二院制議会を設置して、すべてを議論で決する事にし、公家や諸侯だけでなく天下の人材を登用する方針を述べています。次に外交を確立し、憲法を制定し、防衛力としての海軍を拡充し、財政のために為替相場を外国と対等にする事を述べました。要するに天皇を中心とした立憲国家を作り、外国に対して日本の独立を守る方針を示したのです。

  龍馬の「大政奉還」は後藤象二郎を経て藩主山内豊範から徳川慶喜に伝えられ、慶応3年10月に慶喜がそれを受け入れた時、龍馬は「慶喜のために命をささげる」と言って涙を流したと言われています。龍馬の構想が軌道に乗るかと思わせる瞬間です。それから龍馬は「船中八策」を基に「新政府綱領八策」を書き、新政府の人事案を構想します。

  「新政府構想八策」を「船中八策」と比べると「天皇中心の中央集権国家」という部分が抜けています。大政奉還が実現する前の「船中八策」では「政権を朝廷に返して天皇中心の中央集権国家にする」が真っ先に述べられました。しかし大政奉還が実現した後の「新政府綱領八策」では、第一義として新政府に「天下の人材を集める」と書かれているのです。

  龍馬はこの「新政府綱領八策」を書いた直後に暗殺されますが、暗殺の翌年の明治元年に龍馬が組織した「海援隊」のメンバーが「藩論」という木版刷りの小冊子を出版しています。藩は新時代の政治をどのように行うべきかを論じたものですが、それを読むと龍馬の政治思想が分かります。そこには「藩主はこれまでの制度を全て廃止し、身分の差別無い大衆の選挙(つまり普通選挙)によって選ばれた有能な人間を登用して政治を行なうべきだ」と書かれてあるのです。

  龍馬は天皇をかついで徳川幕府の政治体制を転換する事を考えますが、その後の政治体制に重要なのは「二院制の議会を設置する事」と「一般大衆の選挙によって選ばれた有能な人間によって政治が行なわれる事だ」と考えていたのです。(続く)

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ニッポン維新(62)明治維新に見る変革の実像―4

 日本が維新を迎える頃の国際情勢は、欧米列強が植民地を求めてアジア諸国に手を伸ばしていました。黒船が来航したのも、ヨーロッパに遅れをとったアメリカが中国との貿易のために中継地を必要としたからで、その中国はアヘン戦争に敗れて列強の支配下に置かれていました。


 列強による中国支配の情報は日本にも伝えられ、日本人も危機感を強めていましたから、徳川幕府がペリーと及び腰の交渉を行い、和親条約を結んだ事に反発が強まり、それが尊皇攘夷運動となって爆発した訳です。一方、大老となった井伊直弼は尊皇攘夷運動を徹底的に弾圧すると共に、欧米各国と次々に通商条約を結び、日本には各国の外交官が駐在する事になりました。

 その中で有名なのがイギリス公使のハリー・パークスとフランス公使のレオン・ロッシュです。日本に来たのはロッシュの方が先で、新撰組の池田屋襲撃や蛤御門の変などで京都に血の雨が降る元治元年に着任しました。ロッシュは徳川幕府に接近し、外国奉行や勘定奉行などの要職にあった小栗忠順と組み、洋式軍隊の創設、横須賀製鉄所の建設、フランス語学校の設立などを行いました。

 一方、ロッシュに1年遅れて赴任したパークスは、アヘン戦争以来の中国を熟知していた外交官で、イギリスと敵対関係にあったフランスが幕府に接近している事を知り倒幕派と手を結びます。横浜に着く前に下関に寄って木戸孝允や井上馨と会見、着任後も薩摩や土佐を訪れて討幕派を支援しました。従って幕府と討幕派が武力で衝突すれば、日本でイギリスとフランスの代理戦争が起こる可能性がありました。坂本龍馬や勝海舟が大政奉還による平和的政権交代を考えたのは外国の介入を避けるためだったと言われています。

 しかし大政奉還が実現したにも関わらず、事態は武力衝突へと向かい、慶応4年1月、鳥羽伏見の戦いが始まりました。しかし幕府の総大将である徳川慶喜は戦う気持がありません。前線を離脱して江戸に逃げ帰ります。1週間後、江戸城にロッシュが慶喜を訪ねました。ロッシュは慶喜に戦いに立ち上がるよう説得し、その時はフランスが全面的にバックアップする事を申し出ます。しかし慶喜はその申し出を拒絶しました。こうしてイギリス、アメリカ、フランス、イタリア、オランダ、プロシアの6カ国は日本の内戦に中立を宣言したのです

  慶喜がロッシュの申し出を受け入れていれば日本の歴史は大きく塗り替えられた筈です。鎖国を続けてきた東洋の島国が欧米の支配下に置かれずに近代化を進める事が出来たのは、勝利した官軍ではなく敗軍の将である慶喜のお陰なのかも知れません。こうして日本は第二次世界大戦に敗れるまで外国に占領される事なく独自の歴史を刻む事が出来ました。

  日本人は歴史を語る時よく「戦前・戦後」と区分します。戦前は軍国主義の暗い時代、戦後は民主主義で明るい時代とイメージします。しかし「戦後」には昭和20年から27年までの「占領時代」があります。日本人は他国に占領された事を思い出したくないのか、或いはGHQの情報統制が戦時下にも増して厳しかったせいでほとんどの情報が秘密にされてきたためか、「占領」の現実を見ようとしません。

  その「占領時代」に東西冷戦が始まりました。日本は好むと好まざるとに関わらず冷戦構造に組み込まれ、アジアに於ける反共の防波堤と位置づけられました。昭和25年、朝鮮戦争が勃発するとアメリカには出撃と補給の基地が必要となり、これが戦後の日米関係を規定します。アメリカは初めて国外に基地を持ち、戦争の補給のため日本を工業国として再建します。日本が独立を果たした後も安保条約によって米軍基地は存続する事になりました。

  在日米軍基地はベトナム戦争や中東戦争にとって死活的に重要な存在で、アメリカは独立後の日本を占領時代と同じ様に従属させる必要がありました。しかしその構造は冷戦のためであり、冷戦の終焉と共に終わる筈でした。ところがアメリカは中国や北朝鮮の脅威を理由にその後も日米安保体制を拡充強化し在日米軍基地を利用してきたのです。

  そのアメリカに大きな転機が訪れました。オバマ大統領の登場です。オバマはアメリカの大統領として初めて「核廃絶」を打ち出し、「核廃絶」に中国、ロシアを引き込もうとしています。これが成功すれば中国、北朝鮮の核の脅威は減少し、アジアの安全保障情勢は大きく変化します。米軍基地を日本に置く理由もなくなります。

  そうした時に日本にも政権交代が起こりました。新政権は自民党政権と異なり「対等な日米関係」を主張しています。冷戦型思考を引きずった人たちは眼の色を変えて批判していますが、現実の国際情勢は大きく変化しているのです。新政権の課題の一つに普天間基地問題があります。メディアにはアメリカの顔色を伺う意見ばかりが溢れていますが、アメリカに対して日本は「沖縄県民の意向を重視する」と堂々と主張すべきなのです。それで日米関係が壊れることなど全くありません。

  お互いが対等に主張しあいながら問題の解決が図られた時、日本は半世紀以上に渡った「占領時代」から本当に脱却する事が出来るのです。それが圧倒的な国力の差にも関わらず列強の支配下に置かれないよう努力した維新の先人に報いる事です。(続く)

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ニッポン維新(61)明治維新に見る変革の実像―3

 鳥羽伏見の戦いから函館の五稜郭で榎本武揚が降伏するまで、戊辰戦争は1年半も続きました。その間に様々な悲劇が生まれます。例えば相楽総三の悲劇があります。慶応4年1月に鳥羽伏見の戦いが始まり、徳川慶喜が戦線を離脱して江戸に逃げ帰ると、官軍は江戸に向けて進軍を開始します。その先鋒を務めたのが相楽総三の「赤報隊」でした。


 相楽総三は豪農の息子で江戸赤坂の豪邸に生まれましたが、勉学が好きで勤王思想に目覚め、親から貰った莫大な資金を尊皇攘夷運動に提供し、自らも幕府との戦いに身を投じました。西郷隆盛や大久保利通と交流し、西郷からの指示で江戸市中を荒らし回る「御用盗」を組織します。三田の薩摩屋敷を拠点に金持ちの家に押し入って盗みや放火を繰り返すのです。これは大政奉還で武力倒幕の口実を失った薩長が幕府を挑発するための謀略でした。挑発に乗った幕府は薩摩屋敷を攻撃し、そこから鳥羽伏見の戦いが始まるのです。

 相楽総三は官軍の先鋒を務めるに当たり、通過していく諸藩を官軍に協力させるため「年貢半減令」を出すことを新政府に進言して岩倉具視から許可を得ます。ところが財政事情の窮迫に気付いた新政府は「赤報隊」を「偽官軍」に仕立てて抹殺する事にするのです。慶応4年3月、相楽らは進軍中に下諏訪で捕まり直ちに処刑されました。あまりの非業さに下諏訪の人たちは相楽を慰霊する塚を建てました。朝日新聞静岡支局を襲撃した犯人が「赤報隊」を名乗った事と史実との間にどんな関係があるのか分かりませんが、「赤報隊」はいわば国民に税金半減を約束した事で明治政府から抹殺されたのです。

 官軍は3月15日を江戸総攻撃の日と決めていました。これに対して幕府側では徹底抗戦を主張する小栗忠順と徹底恭順を主張する勝海舟とが対立します。徳川慶喜は勝の主張を受け入れて勝に幕府の全権を委ねました。こうして勝と西郷との会談が行われ、江戸は無血開城され、慶喜は死を免れて水戸に隠遁する事になります。しかし戦争の火種が消えた訳ではありません。

 慶喜を警護していた彰義隊は慶喜が江戸を去ると官軍と衝突を繰り返し、7月、遂に大村益次郎が指揮する官軍に上野の山で壊滅させられます。一方、会津藩追討令に抵抗した東北諸藩は会津藩の赦免嘆願書を握りつぶした官軍の鎮撫使を殺害、東北戦争が始まりました。しかし近代的装備の官軍に東北諸藩は歯が立ちません。3ヶ月に渡る戦闘で次々降伏させられました。その中に10代の少年達が自刃した白虎隊の悲劇があります。

 10月、幕府海軍を率いていた榎本武揚は艦船8隻と共に品川を脱出し、抗戦派の幕臣らと北海道に向かいます。そこで元号が明治と変わりました。明治2年1月、北海道全域を占拠した榎本らは函館の五稜郭を拠点に蝦夷共和国を樹立し、榎本は日本初の選挙によって総裁に選ばれます。しかし官軍はアメリカから買い付けた鉄製軍艦を派遣して幕府艦隊から制海権を奪います。こうして榎本たちは劣勢となり、6月に降伏して戊辰戦争は終わりを告げました。

 北海道攻撃を指揮した薩摩の黒田清隆は榎本武揚の非凡さを評価し、助命嘆願活動を行いました。榎本は一命をとりとめ、明治5年に出獄すると明治新政府に仕えます。北方開拓の仕事を皮切りに、駐露公使、駐清公使、逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣などを歴任しました。彼の命を救ったのは幕府の方針でオランダに留学した時に得た幅広い知識です。外国の知識は新政府にとって極めて必要なものでした。

  徳川慶喜が死を免れた背景にも外国の力がありました。慶喜は開明的な考えを持ち、幕臣の子弟を多く外国に留学させ、実弟をパリ万国博に派遣していました。江戸総攻撃、慶喜死刑を考えていた西郷や大久保に警告を発したのは英国公使パークスです。パークスは外国に名が知られた慶喜に過酷な処分が下されれば、欧米諸国は新政府を非難すると警告したのです。それが西郷らの方針を転換させるきっかけになったと言われています。

  戊辰戦争で官軍と戦った地域は、いずれも8月の総選挙で民主党が圧倒的に勝利した地域です。北海道を筆頭に、旧長岡藩の新潟や、旧会津藩の福島などで民主党は強さを発揮しました。かつて田中角栄氏がなぜ地元で強く支持されるのかを取材した時、官軍に長岡を焼かれ、県庁所在地を新潟に移され、その後も冷遇され続けた怨念が田中角栄氏を支えている事を知りました。選挙民にとって田中角栄氏は明治以来の官僚政治に立ち向かう政治家だったのです。

  官軍に敗れ、明治政府の権力機構から阻害された人たちの怨念が「脱官僚」の政治を求めている。8月に総選挙の動向を見ながら私はそんな思いを抱きました。一方で体制の変革には血が流れるのも事実です。そのために悲劇も生まれます。そして榎本武揚の例に見られるように旧体制の中に新体制が必要とする人材もいるのです。そうしたことを全て含みながら体制は変わっていくのです。

  8月の総選挙が鳥羽伏見の戦いだとすると、臨時国会での与野党攻防はどの当たりの戦いになるのでしょうか。また来年の通常国会での攻防、そして運命を決する参議院選挙は明治維新のどの部分に符合するのでしょう。戊辰戦争の終わりを参議院選挙に重ねる事は出来るのでしょうか。(続く)

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ニッポン維新(60)明治維新に見る変革の実像―2

 「尊王攘夷」をマニフェストに掲げ徳川幕府を倒した新政府が、いの一番にやった事は「攘夷」を捨てる事でした。そもそも倒幕に立ち上がった人たちがどれほど本気で「攘夷」を考えていたかは疑問です。倒幕の理論的指導者とされる吉田松陰は日米修好条約を結んだ徳川幕府には憤りましたが、浦賀に来航したペリー艦隊を見て西洋の先進文明に目を見張り、二度目にペリーが訪れた時には死罪を覚悟でアメリカへの密航を企てます。松蔭の胸に燃えていたのは人民をがんじがらめに縛った徳川幕府の身分制に対する怒りでした。松蔭の理想は「一君万民平等」です。そのため草莽(人民)に決起を促したのです。


 松蔭の弟子で長州藩を倒幕に導いた高杉晋作は、松蔭が斬首された後に幕府使節団の随行員として上海に渡り、欧米の植民地政策や先進文明を見聞します。彼は欧米と日本の力の差は知っていた筈です。その高杉が「攘夷」を叫んだのは幕府を倒すための戦術で、外国の艦船に砲撃を加えては責任を幕府に負わせて幕府の力を削ごうとしました。

 薩長同盟を成功させた坂本龍馬の目は世界に向いています。彼は海外との交易が日本の将来に重要である事を知っていただけでなく、維新をただの権力闘争にしてはならないと考えていました。武力倒幕ではなく平和的な政権交代で天皇に大政を奉還し、幕府側と倒幕側の双方から人材を集めて新政府を作り、「万機を公議で決する」政体を構想します。その構想を受け入れた徳川慶喜はオランダで法学や経済学を学んだ西周(あまね)に諮問して議会の設置を検討させます。そこで上院と下院からなる「議事院」を設置し、上院に公家と大名、下院には藩士を選任して、慶喜は上院議長に就任する計画が練られました。しかしこの計画は龍馬の暗殺や鳥羽伏見の戦いが始まった事で頓挫します。

 鳥羽伏見の戦いで慶喜が大阪城から逃亡すると権力の空白が生じました。その混乱の中で神戸事件が起きます。慶応4年1月、神戸を行軍中の岡山藩兵の隊列にフランス人が割り込んで発砲騒ぎとなります。死者は出ませんでしたが英国公使パークスはこの時とばかり日本を恫喝しました。伊藤博文が駆けつけましたが埒があきません。そこで新政府は「攘夷」を捨てる事にしました。徳川幕府が結んだ条約をそのまま受け入れ、さらに岡山藩士1人を切腹させて事態を収拾しました。

 外国の恫喝に簡単に屈する姿勢は困ったものですが、しかし幕府を倒すためのマニフェストを新政府が固執する事に意味があったかと言えば、そうではないと思います。「尊皇攘夷」を主張して新政府の方針転換に抵抗した「尊皇の志士」を後藤象二郎は斬り捨てたと言われますが、当時の国際情勢を考えれば「開国」は自明です。つまり政治は「生き物」であり、政策や方針は状況次第で変わるのが現実です。

 特に外交問題は相手のある話ですから、方針を柔軟に考えていかなければなりません。マニフェストや選挙公約に固執しすぎると危険な事になります。アメリカ大統領選挙を見ていると、まるで法則があるかのように方針転換する例があります。それは中国政策です。共和党も民主党も政権にある間は必ず中国と手を握ります。世界最大の市場ですから、経済を考えれば当然かもしれません。従って挑戦する側は必ず政権の中国政策を批判します。中国の人権問題や独裁体制を指摘して、その中国に寛容な政権を糾弾します。

 ところが中国政策を批判していた政党が政権を握ると一転します。いつの間にか中国とうまくやるようになるのです。ブッシュ(父)大統領の親中国政策を批判して大統領になったクリントンが2期目には中国と「戦略的パートナーシップ」を謳い、今度は息子のブッシュが民主党の親中国政策を痛烈に批判して選挙を戦う。それがアメリカの大統領選挙で繰り返されている事です。

  野党は現実よりも理想的な事を公約に掲げなければ選挙に勝てません。しかし権力を握れば現実を見て政治をする事になります。マニフェストとはそうしたものだと思います。問題は実行される政策が国民のためになるかならないかであり、決してマニフェストが守られるかどうかではありません。その事を理解しないと政権交代の政治を理解する事にはならないと思います。(続く)

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ニッポン維新(59)明治維新に見る変革の実像―1

 私は今回の政権交代を明治維新に匹敵する「体制変革」だと言い続けてきました。選挙で民主党が掲げた「脱官僚」の旗印は、明治以来140年も続いてきた官僚支配体制からの転換を意味し、単なる政権交代を越えるものだからです。私たちは今歴史の大きな節目の中にいると考えるべきなのです。


  260年も平和を維持した徳川幕府は見事な国家形態を作りました。現在の地方自治体に当たる藩に完全自治権を与え、藩は徴税も教育も独自に行う事が出来ました。今から見れば理想的な地方分権です。これによって日本には豊かな地方文化が花開きました。徳川幕府は今で言う連邦政府に当たります。鎖国をして藩に外国との交渉を禁じ、外交は幕府だけが行いました。内政は地方自治体、外交は中央政府という仕組みです。

  藩に完全自治を与えても幕府を脅かす存在になれば平和は保てません。幕府は藩を譜代と外様に分け、譜代には幕府の政治に参加させる一方で経済力を削ぎ、外様には経済力を与えるものの決して政治の舞台には参加させませんでした。その上で権力を脅かす可能性のある天皇、皇族、武士を「法度」と呼ばれる法律で縛り、人民に対しては「士農工商」の身分制度で縛りました。この「がんじがらめ」が260年も平和を続けさせたのです。

  成功は必ず失敗の素となります。「がんじがらめ」が一転して徳川幕府を潰します。身分制度に縛られた下級武士や政治権力から遠ざけられた外様大名の不満が「尊皇思想」と結びつき、ペリー来航によって脆弱さを露呈した幕府に公然と反旗を翻させたのです。身分制度から来る「世襲」が幕府の統治能力を弱め、「世襲」に対する下級武士の怒りが倒幕のエネルギーとなりました。倒幕派は「尊皇攘夷」というマニフェストを掲げ、外国と不平等条約を結んだ徳川幕府を倒して天皇に政権交代させる事を要求しました。

  最後の将軍である徳川慶喜は坂本龍馬が主張した平和的政権交代を受け入れ「大政奉還」を決断します。龍馬は徳川と反徳川の双方から人材を抜擢したドリームチームで新政府を作り、議会制民主主義を採用しようと考えます。しかし「大政奉還」の直後に龍馬は暗殺され、構想は夢に終わりました。龍馬の考えに反して薩摩の西郷や大久保は徳川幕府を武力で潰し、権力を独占する考えでした。

  西郷の謀略によって挑発に乗せられた幕府軍は鳥羽伏見で薩長軍と戦端を開き、その戦争で徳川幕府は完全に敗北します。こうして明治維新となりますが、このプロセスは今年夏の総選挙で自民党が敗北するまでの経過と酷似しています。

  ある時期までの自民党政治は見事なものでした。徳川幕府とは逆に、官僚主導の中央集権体制を極致にまで高め、官僚と財界と自民党とが一体となり、戦前の「国家総動員態勢」と同じ仕組みを作って日本を輸出主導の計画経済国家に導きました。

  徳川幕府は「鎖国」によって海外からの影響を防止しましたが、自民党は冷戦体制を利用してアメリカの背後に隠れ、外交と安全保障をアメリカに任せる事で海外からの荒波を防ぎました。そして貿易で金を稼ぐ経済体制を徹底するため、政権交代をさせず、一党独裁で経済に力を入れました。こうして日本は高度経済成長を成し遂げ、世界第二位の経済大国で世界最大の債権国に上り詰めたのです。この経済モデルは中国をはじめとする発展途上国にとって真似をすべき対象となりました。

  成功の陰で日本には一握りの既得権益とそれに従属する底辺との関係が固定化されました。地方も完全に中央に隷属させられました。この構造は経済が成長している間は矛盾を感じさせません。しかし成長が止まると矛盾が吹き出ます。冷戦が終わり、アメリカがソ連に代わる仮想敵として日本経済をやり玉に挙げるようになると、一党独裁の計画経済モデルが破綻し始めます。日本経済は失速し「失われた10年」を迎えました。官僚、財界、自民党の既得権益に不祥事が続発、地方は疲弊し、「世襲」に対する憎悪が芽生えました。

  冷戦の終焉は自民党の終焉でした。明治以来の官僚主導の国家体制に疑問符が付けられ、政権交代の必要性が叫ばれ、1993年に自民党が分裂しました。冷戦の終焉と自民党の分裂は幕末のペリー来航に匹敵する出来事だと私は思います。外からの影響で国内の権力が二分されたのです。ペリー来航からの15年は血なまぐさい幕末の動乱となり、大政奉還と鳥羽伏見の戦いを経て明治維新を迎えます。現代では自民党分裂から政治の離合集散が始まり、それから15年後に大政奉還ならぬ大連立が計画され、それが失敗に終わると、鳥羽伏見の戦いならぬ今年8月の総選挙へとなだれ込むのです。結果は徳川が完全敗北したように自民党の完全敗北となりました。(続く)

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ニッポン維新(58)維新の始まり

 第45回衆議院選挙は日本の歴史に刻まれる画期的な選挙となりました。国民が初めて自らの手で権力を選択し、政権交代が起きたのです。142年前に坂本龍馬が夢に見た議会政治がようやく本物になるスタートラインにたどり着きました。これからは明治以来日本を支配してきた官僚との戦いです。いよいよ維新の始まりです。

 最も大事な事は、これまでとは異なる統治構造を作り上げる事です。明治以来の官僚支配の仕組みが国の隅々にまで張り巡らされていますから大仕事になります。それを一ずつ変えていかなければなりません。徳川幕藩体制を破った明治の新政府が新憲法を制定し国の形を整えるまでに22年かかっていますから、それぐらいの時間が必要かもしれません。まずは官僚政治から政党政治への道筋が揺るがないように基礎固めをすることです。

 これまで政府・与党を攻撃してきた政治家が、これからは攻撃をされる側に回ります。その時に官僚に助けを求めてはなりません。官僚を使いこなして役所から情報を引き出し、野党に答弁するだけの力量を身につけなければなりません。それは官僚をムチ打つだけではできません。信賞必罰を巧みに行使して官僚を政治に従属させる人事能力を持つ事です。

 当面の第一課題は来年度予算の編成です。官僚が作る予算を政治主導に切り替える事ができるか。そしてその予算配分でどれだけ国民に希望を与える事が出来るか。それが問われます。予算を見れば国の目指す方向が分かります。それが政権交代を支持した国民を裏切るものであってはなりません。ですから国民には予算案の内容をよくよく説明しながら成立を図るべきです。

 同様に大事なのが来年の参議院選挙です。それは今回の政権交代劇を締めくくる最終戦争と言えるものです。2年前の参議院選挙で幕を開けた政権交代劇が、この衆議院選挙で大転換を果たし、来年の参議院選挙で閉幕するのです。民主党が単独過半数を握る事が出来れば、「官僚政治からの脱却」は不動のものとなります。逆に来年の参議院選挙で民主党が単独過半数獲得に失敗すれば、政治は一気に不安定になります。

 現在の民主党は参議院で過半数に12議席足りません。従って社民党と国民新党との連立が必要です。野党に転じた自民党が社民党と国民新党を民主党から引き剥がして味方に付ければ状況は一転します。衆議院選挙で敗れた自民党が政治の主導権を握るのです。民主党が作る法案を全て参議院で否決出来ます。民主党が獲得した308議席は三分の二に足りませんから再議決は出来ません。予算案が否決されれば新政権は総辞職か解散に追い込まれます。「脱官僚」政治はそこで行き詰まり、再び官僚と自民党がタッグを組む政治が復活します。

 その可能性を阻止するためにはどうしても参議院選挙で単独過半数を確保する必要があるのです。来年の参議院選挙で単独過半数を獲得するまで民主党に浮かれる暇はありません。単独過半数を確保すれば自民党が4年後の衆議院選挙で勝利しても何も出来ません。衆議院の三分の二がない限り再議決が出来ないからです。従って参議院選挙で民主党が単独過半数を確保すれば、自民党がどうなろうと脱官僚路線は6年以上不動です。霞ヶ関の官僚達も抵抗することの難しさを知り、これまでとは異なる政治体制を受け入れる気になります。つまり官僚との戦いを制するのに最も有効なのは来年の参議院選挙で単独過半数を獲得する事なのです。(続く)

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