「有陰徳者必有陽報」
『淮南子』
民主党の代表選挙の際、小沢一郎候補は、映画『山猫』の科白「変わらずに生き残るためには、変わらなければならない(We
must change to remain the same)」を引用して、演説を締めくくっています。彼は、以前から、最も好きな映画としてバート・ランカスターとクラウディア・カルディナーレのダンス・シーンで知られるこの作品を挙げています。『山猫』は民主党の新代表の傾向を知らしめるのみならず、時代の変化に際することはどういうことなのかを語っています。
『山猫(The Leopard)』はルキノ・ヴィスコンティ監督による伊米合作映画で、1963年の第16回カンヌ国際映画祭においてグランプリを受賞しています。淀川長治は、『淀川長治映画塾』の中で、「『風と共に去りぬ』に負けない立派な映画」と絶賛しています。欠点は、とても貴族に見えないアラン・ドロンのキャスティングくらいでしょう。音楽担当は、フェデリコ・フェリーニの『道』やルネ・クレマンの『太陽がいっぱい』、フランシス・フォード・コッポラの『ゴッドファーザー』でも知られるニーノ・ロータです。
原作はジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサ(Giuseppe Tomasi di Lampedusa 1896~1957)の小説『山猫(Il
Gattopardo)』です。ただ、こちらの方がもう少し長く、老公爵の死後まで続きます。作者は、小説の主人公同様、シチリアのパレルモの公爵家に生まれ、ダンテ・アリギエリやウィリアム・シェークスピア、スタンダール、マルセル・プルーストを愛読し、いくつかの文学エッセイを執筆していますが、スタンダールからの影響が顕著なこの作品が唯一の長編小説です。彼が亡くなった後の1958年に出版され、戦後イタリアで最初のベストセラーになっています。
舞台は1860年のシチリア島です。この時期のシチリアは激動しています。反動的なウイーン体制の下、分裂していたイタリアで「統一運動(リソルジメント:Il
Risorgimento)」が全土で起き、1843年以降、ジュゼッペ・マッツィーニによる共和国構想がイタリア南部で強く支持されています。その頃のシチリアは、ナポレオン・ボナパルト没落後の1816年に再興されたブルボン家のナポリ王フェルディナンド4世が興した両シチリア王国に属しています。欧州各地で革命が勃発した「革命の年」とも呼ぶべき1848年初頭、フェルディナンド2世治世のシチリア島民も蜂起し、住民へ立憲議会制を与えることを国王に認めさせ、さらに、退位を宣言します。フェルディナンドはナポリ領内で反動派の支援を受け、同年9月、軍隊をシチリア島に送り、翌年5月にパレルモを降伏させます。しかし、1859年にフェルディナンド2世の子フランチェスコ2世が後を継ぐと、翌年、北イタリアがオーストリアの支配から解放された後、統一主義者のジュゼッペ・ガリバルディは1000人の義勇兵と共にシチリア島を征服し、61年、シチリアはヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の新しいイタリア王国の一部となります。赤シャツ隊上陸前夜から始まる『山猫』はこうした歴史的・社会的激動を背景にした作品なのです。
シチリア島で最も由緒ある貴族で、「山猫」の紋章を戴くサリナ公爵ドン・ファブリツィオ(バート・ランカスター)は、政治的変動にショックを受けつつも、以前と変わらぬ貴族としての生活を守り続けています。甥のタンクレディ(アラン・ドロン)はガリバルディに憧れて、イタリア統一運動に参加していますが、公爵は、価値観が異なっているにもかかわらず、革命派のその恐れを知らぬ若者に愛情を注いでいます。しかも、公爵の娘コンセッタも彼と結ばれることを願っているのです。そんなある日、サリナ家は田舎の別荘に出掛けます。一家が到着すると、村長のドン・カロゲロ(パオロ・ストッパ)が彼らのための歓迎会を催します。彼は抜け目なく時代の流れを見通して成り上がり、無教養で、品のない新興ブルジョアジーです。しかし、村長の娘アンジェリカ(クラウディア・カルディナーレ)にタンクレディは惹きつけられ、タンクレディは、所属連隊に復帰後、公爵に手紙を送り、アンジェリカとの挙式の手配を懇願します。公爵夫人(リナ・モレリ)は彼を裏切り者と罵り、公爵も娘の傷心に胸を痛め、それ以上に、その縁組に貴族としての誇りが傷つけられるのを感じます。結局、わだかまりを胸の内に秘めながらも、身分違いの結婚を認めるのです。大舞踏会が開かれ、アンジェリカは、その父親と違い、平民の娘と思えない気品を漂わせ、ドン・ファブリツィオも彼女の求めに応じてダンスをします。しかし、その大仰なダンスは見事だったとしても、場にそぐいません。それは大いなるデカダンスを体現しているのです。貴族の時代は終わり、ブルジョアの時代が来ています。歴史は、一人の人間の思いとは関係なく、流れていきます。公爵は自らの老いといずれ訪れる死を実感するのです。「山猫と獅子は退き、ジャッカルと羊の時代が来る。そして、山猫も獅子もジャッカルも羊も自らを地の塩と信じているのだ」。
映画の世界は新イタリア王国成立の前です。しかし、統一後、シチリア島は産業発展からとり残され、大量の移民がアメリカ大陸へ渡り、マフィアの活動が活発化していきます。統一後のイタリアにおける最大の政治問題は南部問題です。ヴィスコンティも映画『若者のすべて』(1960)でこの問題を扱っています。南部のルカニア出身のロッコとその兄弟が北部のミラノで苦悩し、挫折していくのです。重工業地域の北イタリアと一次産業を中心とする南イタリアの経済格差が一向に改善されていません。1960年代にはバノーニ計画によってターラント製鉄所やアウトストラーダが建設され、南部での重工業発展と社会基盤の整備を推進しましたが、格差が縮小しているとはいかに政府よりの人物であっても信じていないでしょう。北イタリアは、現在、欧州でも最高の所得水準の地域であるのに対し、南イタリアの失業率は北部の4倍に達しています。与党の一翼を担う北部同盟はたいした産業もなく、北の税金を浪費し、腐敗と暴力に塗れた南部から北部は分離すべきだと主張しています。
けれども、「ジャッカルと羊の時代」、すなわち近代以前、シチリアは地中海の交通の要所としてさまざまな文化が入りこみ、独自の歴史を辿っています。紀元前4世紀、プラトンは、失敗するものの、シチリア島のシュラクサイの若き僭主ディオニュシオス2世を指導して哲人政治の実現を試みています。
多くのシシリアンの作家がそうしたシチリアの独特な歴史を多方面から描いています。『山猫』は、後に、社会問題への視点が欠けているとレオナルド・シャーシャによって批判されます。彼は推理小説『真昼のフクロウ』(1961)・『人それぞれに』(1966)でマフィアを告発し、『モロ事件』(1978)において関係者の膨大な書簡を読み解きながら、国家とテロの問題に切りこんでいます、さらに、ヴィンチェンツォ・コンソロは、1976年、同じ歴史的背景を用い、『反山猫』とも言うべき『無名水夫の微笑み』を発表しています。しかし、いずれの作家の登場も『山猫』なくしてはありえません。戦後シチリア文学は『山猫』に対する批判として形成されてきたのであり、その意味で、この小説はドン・ファブリツィオとして位置づけられます。克服されるべき存在として、歴史や社会の変化におけるデカダンスとしてそれはあるのです。
『山猫』には、新旧や動静のコントラストが描かれていますが、歴史的・社会的変化がそうであるように、それは単純ではありません。表面的には、公爵は旧=静、タンクレディや村長は新=動を表わしています。しかし、新しい時代の流れに乗っている者の方が、むしろ、保守的な価値観や権威を欲しているのです。タンクレディはガリバルディに貴族主義的な英雄を見出して統一運動へと身を投じ、アンジェリカへ貴族的な教養や立ち振る舞いを要求します。また、アンンジェリカの父ドン・カロジェロはこれからの時代は家柄ではなく、才覚だと見せつけながらも、貴族との血縁関係を喜びます。彼らは自分の旧さに無自覚です。
一方、ドン・ファブリツィオは新しい時代の到来を認めようとしつつも、心の内ではその変化を嘆きます。彼は「山猫と獅子」の時代の人間であり、「ジャッカルと羊の時代」には馴染めません。自分の旧さを自覚しています。ただ、デカダンスとして、克服されるべき存在として生きざるをえないことを認知し、「変わらずに生き残るためには、変わらなければならない」と言うのです。この認識においては彼は新=動です。公爵は、歴史の流れに対し、諦念と矜持をもって臨んでいます。公爵の科白の中の「地の塩」が示す通り、変化は塩辛いものです。決して甘美なものではありません。
旧=静を最も体現しているのは、映画ではあまり触れていませんが、公爵の娘コンチェッタです。彼女は、父の死後、その憂いと嘆きを受け継ぎ、老いていくのです。
淀川長治は、『山猫』を含め、ヴィスコンティの映画を「敗北の歌」と呼んでいます。確かに、『山猫』にはデカダンスが溢れています。「山猫と獅子は退き、ジャッカルと羊の時代が来る。そして、山猫も獅子もジャッカルも羊も自らを地の塩と信じているのだ」。この「地の塩」という意識が歴史の変化と共に生きるには不可欠なのだということを『山猫』は告げているのです。 〈了〉
註: 塩は地上、すなわちこの世において生命の維持に不可欠であるのはもちろん、古来から調味料や防腐剤、殺菌、清めの道具として用いられていますが、「地の塩」は『新約聖書』に由来します。
あなたがたは地の塩なのです。けれども、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味がつけられるのでしょう?もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。
(『マタイによる福音書』5章13節)
Vos estis sal terrae; quod
si sal evanuerit, in quo salietur? Ad nihilum valet ultra,
nisi ut mittatur foras et conculcetur ab hominibus.
(“Evangelium Secundum Matthaeum” V: xiii)
You are the salt of the earth,
but if the salt has lost its flavor, with what will it be
salted? It is then good for nothing, but to be cast out and
trodden under the feet of men.
(“The Gospel According to Matthew” 5:13)
富山県射水市の射水市民病院において、入院患者7人が延命措置を中止されて死亡しました。病院によると、意識もなく、回復の見込みのない患者だったそうです。それに関わった外科部長はいずれの家族の同意をとっていたと証言しています。その一方で、7人以外の患者の人工呼吸器を外しかけたケースもあり、その家族はそういった説明もなく、そうした行為を頼んだこともないと主張しています。少なくとも、尊厳死を考える際に重要な患者本人の意思の確認は十分ではなかったようです。
安楽死や尊厳死は非常に難しい問題ですが、ブライアン・クラーク(Brian Clark)は演劇『この生命誰のもの(Whose
Life is it Anyway?)』でそれを扱っています。この作品は、1981年、ジョン・バダム(John Badham)監督によって映画化され、リチャード・ドレイファス(Richard
Dreyfuss)が迫真の演技を見せています。交通事故で四肢の機能を失った若い彫刻家ケン・ハリソンは病院内で一生をすごすことを拒否するために、訴訟を起こします。しかし、それは彼にとって死を意味します。「脳以外の働きが不可能な人間を生かしておくほど残酷なことはない」と彼は安楽死を求めるのです。裁判の結果、ケンに病院の外へ出る許可の判決が下されますが、彼は、結局、それを選択せず、新しい生き方を模索していくのです。
この演劇と今回の出来事との間には明確な違いが二点あります。一つはすでに触れた患者自身の意思確認の点であり、もう一つは第三者による法的な根拠に基づく審査の点です。けれども、日本には、裁判所が判決の中で触れたことはあるものの、いまだに延命中止に関する国による明確な指針がありません。
19世紀、フリードリヒ・ニーチェは「神の死」を宣告しました。20世紀は、科学技術の八手に伴う延命治療器のために、譬えるなら、その神の死も決定不能に陥ってしまいました。21世紀は神が尊厳死を迎える時代でしょう。それに向けた合意形成とガイドラインの作成に本腰をあげる時期が来ていることを今回の出来事は告げているのです。
日本銀行の福井俊彦総裁は、2月9日、5年間続いた量的緩和政策からの転換を記者会見で発表しました。デフレに苦しんできた日本経済は回復状況にあると日銀が判断したのです。この政策をめぐって、中央銀行としての資質に疑問符がつくと見られてきた日銀と目先のことばかり気にする政府との間で綱引きが続き、押しの強いエコノミストや短絡的なメディアもあれこれ意見を言い、いささか喜劇じみていました。
それはアントニオ・サリエリ(Antonio Salieri)のオペラ『初めに音楽、次に科白(Prima la Musica
e poi le Parole)』を彷彿させます。これはジョバンニ・バティスタ・カスティ(Giovanni Battista
Casti)による台本のオペラ・ブッファで、1786年2月7日、ウイーンのシェーンブルン宮で初演されています。伯爵の命令によって4日間でオペラをつくるはめになったものの、作曲家と台本作家は口論を繰り返し、おまけにわがままなプリマドンナが口をはさむという楽屋ネタの喜劇です。お客はそっちのけで、登場人物はみんな自分の思惑を主張しているだけなのです。
量的緩和政策は、その採用以来、「思惑が第一、政策は次に」という状態が続いていました。この破天荒な政策は、お粗末な政治のために、やっつけ仕事して始まり、ずるずると引き延ばされてきたのです。
サリエリは、ヴォルフガング・アマデウス・モールラルト殺害の犯人として描かれた映画『アマデウス(Amadeus)』において、すべてを懺悔した後、「私はお前たちに赦罪を言い渡す。私はお前たちに赦罪を言い渡すのだ(I
absolve you. I absolve you all)」と口にします。しかし、異常な政策を招いてしまった責任者は告白さえしていません。彼らに「赦罪を言い渡す」ことはまだできないのです。
猪口邦子少子化・男女共同参画担当大臣は、先に、入院を含む出産関係費用を国が全額負担する「出産無料化」制度の導入を検討していく考えを表明したのですが、その少子化対策は尻すぼみになりつつあります。
猪口大臣は、劇場の登場人物にふさわしく、マーサのように振舞っています。彼女は、あたかも、エドワード・オールビー(Edward
Albee)の演劇『バージニア・ウルフなんかこわくない(Who's Afraid of Virginia Woolf?)』に出てくる杯が手放せない女性です。
大学教授夫妻のジョージとマーサは、訪れたニックとハニーに、21歳になる息子のジムのことを尋ねられます。ジムのことは口外しないと夫婦の間で約束していたにもかかわらず、マーサはあれこれ話し出します。しかし、ジョージは息子が昨日交通事故で死んだと告げます。実は、ジムは最初からいなかったのです。ジョージはニックに「真実と幻想…誰にその違いがわかる?(Truth
and illusion...Who knows the difference?)」と問います。コミュニケーションもなくなり、冷めきった夫婦関係を続けていくために、2人が作り上げた幻想にすぎなかったのです。
猪口大臣の少子化対策はジムのようです。小泉内閣が存続する目的で、作り出された想像の産物でしかありません。しかし、ジムが実際にはいないことを人々はもう知っています。そろそろ幕引きの時間でしょう。
なお、このタイトルはディズニー映画の『三匹の子ぶた』の挿入歌『狼なんかこわくない(Who's Afraid of
the Big Bad Wolf?)』をもじっています。そう考えると、3月6日の民主党の蓮舫参議院議員の国会質問に、狼から将来を担う子ぶたをどう守るのかという内容が含まれていたのは、偶然にしては随分とできすぎた話です。